黒い瞳のダフネ


                        倭国 殉




…終わった。
本田菊はベッドの上にいた。
血の滲んだ包帯に身体の殆どを覆われ、右腕と左足はギプスで固められている。あばらも何本か折れているようだ。
寝返りもままならぬ状態で、点滴がぽたりぽたりと落ちるさまを目で追っていた。
…疲れた。
このまま眠ってしまえば泥のように融けて無くなってしまえるのではないかと思った。
心残りは我が家に併合していた幼馴染と妹、そして同盟を組んでいた弟、未だ欧米からの支配を断ち切れないでいる家族たち。
「……」
…死にたい。
手塩にかけて育てた息子(満州国)を目の前で惨殺された、あの時の悲しみが、苦しみが、痩せてあばらの浮き出た胸の上に鉛の塊のように重くのしかかり、呼吸さえ儘ならない。
視界が滲む。零れ落ちた涙は、瞬く間に眼帯と顔に巻かれた包帯に吸い取られた。

ノックの音がした。
菊は無反応のままだった。
「ハロー、菊。起きてるかい?」
入ってきたのはアルフレド・F・ジョーンズ。
「戦後の処理は着々と進んでいるよ」
そう云いながらカーテンと窓を開けた。
「……っ!」
菊はまぶしさに少し目を細めた。
中庭に茂る月桂樹の香りが風に乗って部屋に入り込んでくる。
異国の夏の光は爽やかで、自分がとても不似合いな存在に思えた。

眼帯と包帯に遮られた狭い視界の中でアルフレドの顔が近づいた来た。
「……」
嫌味の一つでも言われるかと視線を逸らす。
「やっと、捕まえた」
そう動いた唇が菊の乾いた唇に押し当てられた。
短いキス。菊は無言で不快感を露わにしたが、包帯のせいでその表情はアルフレドには読み取れない。
「もう君を離さないぞ…」
眼鏡の向こうの彼の目は笑っていた。
でも何故か、菊はその言葉にナイフを突きつけられる恐怖と同じものを感じた。




「やあ、アーサー!最近の君は新しい奥さんにすっかり骨抜きにされちゃってるね!」
日露戦争、第一次世界大戦後、日本は欧米にとって驚異的な存在になりつつあった。
育つ芽は早めに対処しなければ取り返しがつかない。
抱き込むか潰すか…、どちらにしても今のアルフレドには、同盟によりアーサー・カークランドの庇護の下にある状態の菊に手を出すことが出来なかった。
「はあ?」
眉間に皺を寄せ、無愛想に答えるアーサー。
「この界隈じゃあみんな言ってるぞ、アーサーはあの黄色い可愛い子ちゃんに夢中だってね!」
にわかに顔を高潮させ、案の定アーサーは否定に走る。
「な…っ、バ…ッ!そんなんじゃねぇよバカ」
アルフレドはニヤリと笑った。
さっきアーサーの家に入った時、菊がいたことを確認している。
もうすぐ菊はアーサーと自分に飲み物を運んでくるだろう。
「だろうね!よりにもよって俺の兄貴だった天下の大英帝国様が、植民地と同じ人種の国に真面目に惚れる訳無いよね!」
廊下から足音が聞こえてくる。
アーサーは一瞬言葉が詰まったが、ここで黙るわけには行かないと、つい言わなくていいことまで言ってしまった。
「なに言ってんだよ、あいつは唯の、…ロシアの番犬だよ。
甘やかしてるのはそれなりの利用価値があったからさ、でももういい頃合かな、イヴァンも今は革命やら何やらで南下する余裕なんて無いだろうし」
グッドタイミング!アルフレドは心の中で握りこぶしの親指を立てた。
足音が止んだが、誰も中に入ってくる様子は無かった。
「そうそう!もう日英同盟なんて必要ないんだぞ!
…それで、フランシスとも相談したんだけど、今度は俺と君とフランンシスとホンダで同盟を組まないか?」
そう言いながら馴れ馴れしくアーサーの肩に腕を回した。
「表向きは同盟ということでさ、ホンダを監視するんだ。彼は大きくなりすぎた。
芽を摘むにしても伸ばすにしても、適当な圧力が必要だ。」
「………」
アーサーは無言になった。
「それとも何かい?君はあの可愛い子ちゃんを手放すのが惜しくなったわけかい?」
「そんな事ねぇよ!」
アーサーがムキになって反論する。
「……分かったよ、4国間の同盟については考えておく」
アルフレドは満足そうに笑ってソファに腰掛けた。
…その日、アーサーとアルフレドに飲み物が運ばれてくる事は無かった。
帰り際、アルフレドは中庭に佇む菊を見て、彼がドアの向こうで自分たちの会話を聞いていたことを確信した。

それから暫くして、四カ国同盟が成立し、日英同盟は失効した。




思えばあの頃からアルフレドは菊が欲しかったのだ。
アーサーといる時の菊の優しい微笑みが欲しかった。
二百五十年もの長い間、引きこもっていた菊に世界の広さと楽しさを知らしめたのは自分なのに、菊はアルフレドに向かって、アーサーといる時のような笑みを見せることは無かった。
どちらかというと菊は自分の顔を見るたび少し困ったような顔でいる事が多かった。
「いいですね、若い人は…、羨ましいです」
それが自分に対する彼の口癖だった。
アルフレドはその言葉が嫌いだった。

元海賊の兄に育てられたアルフレドは、やはり欲しいものは奪い取る方が得意だった。
だから戦争で国力の弱ったアーサーから菊を奪った。
しかし菊はアルフレドのものにはならなかった。
どれだけ圧力をかけても菊は屈しなかった。
何度か話し合いの場を設け、懐柔も試みたが無駄だった。
石油の輸出をネタに引きとめようとしたが、菊はとうとう国連を脱退し、フェリシアーノ、ルートヴィッヒらと共に枢軸国を名乗り、連合国と対立することになる。
しかしそんなことをしても無駄なのだ。
今まで菊が勝ってきた戦争は欧米の国々の支援があって勝って来られたものだったのだ。
その証拠に欧米からの支援を受けられない日中戦争は泥沼状態だ。
それを資源もない状態で、戦い方もろくに知らない植民地の国々を率いて欧米に立ち向かうなど、まさしく愚の骨頂だった。
しかし、ヴァルガス兄弟が枢軸を離反し、ルートヴィッヒが降伏しても菊は頑として楯突く事を止めなかった。
「戦後、国連への加盟を希望する国は、戦争終了までに連合国側に付く事」と宣言し、中立国の殆どを連合国側に付けた。
それでも連合国側に付かなかった国には圧力をかけた。
これで彼に味方する国も無くなった。
天涯孤独の果てに、石油も、食べ物も、銃弾さえ底を尽きたのに、それでも菊は屈しなかった。
その不屈の精神にアルフレドは畏怖の念すら覚えた。
彼が自分に屈するのは、彼が死ぬ日なのかもしれないと思うことが増えた。
それでもいい、とアルフレドは思い始めた。
彼にはもう耐えられなかったのだ、追い詰められていたのはアルフレドの方だった。
菊は見た目も小さく大人しい性格で、新しいものに染まりやすく柔軟な思考(宗教)を持っていた。
だから最初は彼を懐柔するのは簡単だと高を括っていた。
しかし彼の本当の性格は恐ろしく頑固で真っ直ぐで、アルフレドの許容範囲を遥かに超えていた。
悩んだ末にアルフレドはイヴァン=ブラギンスキと手を組んだ。
しかし、もしもイヴァンが菊を負かしてしまえば菊は共産主義国となってしまう。
そうなってしまってはこれから先菊を手に入れることはほぼ不可能となるだろう。
「……」
イヴァンが菊に攻め込む前に、彼を殺してでも戦争を終わらせなければならない。
後ろからイヴァンが近づいている今、もう後戻りは出来ないのだ。

…何故君は俺の思うとおりに動かないんだい?

「Yes」と一言言って先に折れてくれていればお互いにここまで意地にならずに済んだのに。
ここまで酷いことをせずに済んだのに。
そして夏のある晴れた朝、アルフレドは最新であり最後の武器だった自慢の改造マグナムで菊を打ち抜いた。

…君は、そんなに俺が嫌いなのかい?

2発目の弾が菊の足を貫いた時、アルフレドの目から涙が落ちた。
銃弾を受けて崩れ落ちた菊を抱きかかえ、自分が一体何をしたかったのか一生懸命思い出した。
こんな結果のためじゃない。
ぴくりとも動かない菊を抱きしめ、嗚咽を殺してアルフレドは泣き続けた。




「これから君は俺ものになる、…分かるかい?」
経緯や形はどうであれ、晴れてアルフレドの願いはかなったのだ。
これからは世界中の国の公認の元で菊を独占することが出来るのだ。
「…いっそ、…殺して下さればよかったのに…」
消え入りそうな声でそう呟いた菊の瞳は何処をも見てはいなかった。
負けてもなお彼は自分のものにはならない。
「…馬鹿だなあ、俺が君を殺すわけないんだぞ」
アルフレドはにっこりと笑った。
「死ぬより辛い目にあってもらわないと割に合わないんだぞ」
自分が彼を愛し、追い続けることが彼にとって苦痛だというのならば、ここに閉じ込めて一生苦しんでもらおう。

「愛してるよ…、菊」
そう言いながらアルフレドは菊の身体に掛かっているシーツを剥ぎ取った。
身体中至る所を包帯で巻かれている。その痛々しさにアルフレドの眉間に一瞬皺が寄る。
薄く短いガウンのような寝間着の帯を解く。
「…止めて…下さい」
弱々しい抵抗。
動くと激痛が走るため、身体が動かせない。
寝間着の下は包帯以外何も付けていなかった。
ベッドの横の柵をはずし、アルフレドの片膝がベッドに乗り上げる。
「…愛してる、菊。君は俺の思いを受け入れなければならない。…いいね?」
「…いや…、嫌です…。お願いです…止めて…ください」
菊は目を閉じ、小さく首を横に振った。
アルフレドの膝が菊の身体をまたぎ、組み敷いた形になる。
きゅっと噛み締めた薄い唇にそっと口づけた。
「力を抜いて…、無駄な抵抗は止めるんだ。これは命令だよ」
戦勝国からの命令に従わない訳にはいかない。
菊は目を閉じたまま唇を噛むのを止め、深呼吸とともにゆっくりと身体の力を抜いた。
再度合わさった唇からアルフレドの舌が乱暴に進入してきた。
「ぅく…っ」
逃れようとするが下顎を掴まれままならない。
舌が絡み合い、菊の乾いた口腔にアルフレドの唾液が流れ込んできた。
「ん…ふっ…、ぁっ…」
舌に絡みつく唾液がクチュクチュと淫靡な水音を立てる。
背筋に悪寒が走るのは熱のせいだけではないはずだ。
決して上手とはいえない、強引で乱暴なキス。受け止める菊の眉間が険しくなる。
アルフレドの空いた手が菊の太腿を撫で上げた。
「んんっ!」
ビクンっと背中が痙攣し、そのせいで折れた肋骨が動き、身体に激痛が走った。
「あああっ!」
苦痛に思わず声を上げる。
「ははっ!情けないなぁ、これくらいで声を上げるなんて」
アルフレドはそう言って菊の膝を割ってその間に下半身を滑り込ませた。
そして怪我の少ない方である右足を肩に抱えあげる。
「う…ぅく…っ」
「まぁ俺としては我をなくして泣き叫ぶ君を見てみたい気もするけどね」
そう言って右手の中指を口に咥えてたっぷりの唾液で濡らす。
その指を広げた足の付け根の後ろに持っていく。
「止めて…ください」
聞き入れられないことは分かっていたが無抵抗のままでいるのも嫌だった。
普段他人に曝すことのない器官を押し広げられ、唾液を塗りつけられた。熱が奪われひやりとした感触が寒気になって背筋を這い上がってくる。
「指で慣らしてなんかあげないよ、痛くても我慢するんだぞ」
サスペンダーを外し、ズボンを下げる。
既に硬くなったアルフレド自身を菊の曝された下半身に押し当てた。
「――……!!」
菊は声にならない悲鳴を上げた。
アルフレドが動く度、体中の骨がきしみ、傷が開き、内蔵がえぐられるような激痛が走る。
「ぅぐっ…あっ…!あぁっ…!」
突き上げられるたびに声が漏れる。快感とは程遠い、肺から絞り出すようなうめき声。
「ハハッ…気持ちいいかい?菊…、もっと…いい声で鳴くんだぞ…!」
アルフレドは笑っていた。
心のない「容れ物」を抱く虚しさを笑うことで消してしまいたかった。
「…君のせいだ…、分かるかい?君が俺を拒んだせいなんだぞ…、アハハっ、これが君の、俺への贖罪だ…」
息を荒げながら菊の耳元でそうつぶやく。
しかし意識が朦朧とし始めた菊にはアルフレドの言葉は半分も聞こえていなかった。
気が狂いそうな激痛の中、菊は兎に角早くこの拷問が終わってくれることだけをを祈った。




「…愛してるよ、菊」
再び菊の身体にシーツを掛け、アルフレドは彼の血の気の引いた額にキスをした。
「君が俺のことをどう思おうと…、君は俺のものなんだぞ」
無反応な菊の顔を見ながら小さなため息を付く。
ベッドの横のワゴンにあった錠剤を菊の口の中に落とし、口移しで水を飲ませ、薬を喉に流し込んだ。
不安そうな顔の菊に乾いた笑みを見せる。
「睡眠薬だ、暫く眠ったほうがいい…」
窓とカーテンを閉め、アルフレドは部屋を出た。

菊は虚ろな目で天井のファンが回るのを見ていた。
『大丈夫だよ菊、ピンチの時にはきっとルーイが助けてくれるよぉ』
どこからともなく幻聴が聞こえる。
「…フェリシアーノ君…」
声の主の名を呟く。
「………助けて…、ルートヴィッヒさん…」
叶うはずの無い願いを口に出した。
しかし彼の国も今は連合国の支配下に置かれているのだ…。
菊の目から、こらえていた涙が堰を切ったように流れ出した。
窓の外の月桂樹の枝が風に揺れ、閉められたカーテンにゆらゆらと影を落とす。

鳥籠のような部屋の中で、眠りにつくまで菊は泣き続けた。