Feather Touch Operation2

                     倭国 殉


チッ、チッ、チッ、…柱時計の歯車が回る音がやけに部屋に響く。
パソコン画面とにらめっこする本田菊、原稿作製の作業に取り掛かってはいるのだが、しかしどうしても集中できない。
ボーン…!
時報の音に驚き、小さく肩をビクンと揺らす。
…11回。そう、もう11時になるのだ。
「………っ!」
なぜ自分がこんなにイライラしなければならないのか。
そう、それはみんな「彼」のせいだ。
菊は台所に行き、冷蔵庫から冷たい麦茶を出して一気に飲み干した。
イライラする。モヤモヤする。なんとなく息が苦しくて、アニメも音楽も原稿も集中できない。
運動不足のせいかと、アルフレドから買った某ブートキャンプのDVDにあわせて身体を動かしてみるがやはり続かない。
「…はぁ」
理由は…分かっている。分かっているけど認めたくないと言うのが本心だ。
いや、そんな筈ある訳はないし、あったとしても認めるべきものではないと思っている。

ピンポーン

「……っ!!」
インターホンの音に弾かれたように菊は玄関に向かった。
「ぼーんぬ・にゅーいっ!」
鍵を開けると、開いた引き戸から酔っ払ったフランシス・ボヌフォワが倒れこんできた。
「たっだいまーぁ、菊、あいしてるー」
かなり良い気分のようで、それが余計に癪に障る。
「………」
菊は無言でフランシスに背中を向けた。
「今日はほぉんとぉにサイコーでしたーぁ♪日本の女の子ってけっこう積極的なのねぇ〜。お兄さんの方がタジタジよぉ〜ん」
その台詞に心臓がぎゅっと握り締められたように苦しくなった。




事の起こりは2日前、フランシスから来たメールだった。
「明後日の日曜日、イベントに行きたいから一緒に行って欲しい」という内容だった。
「…明後日…、ですか」
何のイベントがあっただろうと同人イベントサーチのサイトを検索してみるが、これと言って大きなイベントは無かった。
個人主催の小さなオンリーイベントかもしれない。
なにせ彼も多忙の身なので、大型イベントにあわせて休みを取るなんて出来ないのだろう。
前回ノーアポで遊びに来て顰蹙を買ったせいか、今回は2日前に連絡があっただけマシと思うしかない。

「ボンジュー、菊!」
前回と同じく真っ赤なプジョーから降りたフランシスは今回は大きなトランクを引いていた。
「フランシスさん、何ですか?この大荷物は…」
家の外まで迎えに出た菊はその大きなトランクになんとなく嫌な予感がした。
「ん?コスプレ衣装さ」
そう言って挨拶のハグ。
「大丈夫!菊の分もあるからね」
…なぜ悪い予感は当たるのか、と、菊は小首をかしげてため息をついた。

「…なんですかコレは!?」
開けたトランクの中の真っ黒な和服の衣装を手にとって、普段からは想像がつかない素っ頓狂な声を上げる菊。
「何って…、コスプレ衣装じゃないか」
「………参加するイベント名は…何でしたっけ?」
想問いかける菊の眉間には薄く皺が寄り、目はフランシスの方を向いていない。
「ええっとねぇ…、あ、これこれ、『MadHatter's TeaParty』ってヤツね」
PCからプリントアウトした詳細を菊も覗き込む。
「…これ、ゴスロリイベントじゃないですか…!」
珍しく、あからさまに嫌そうな顔になる。
ゴスロリイベントなら同人イベントサーチでは見つからないはずだ。
「…私は行きませんよ」
ゴスロリといえば、参加者の9割方が女の子である。
それにゴスロリ少女といえば、腐女子並みかそれ以上に扱いにくい人たちが多いのだ。
女性の扱いに慣れていそうなフランシスならともかく、人と一緒にいるより家でゲームでもしているほうが性に合うような菊が彼女たちの前で上手い対応が出来るとは思えない。
「えー!折角菊の衣装も作ってきたんだからさぁ!一緒に行こうぜ?」
そう言ってもう一着の衣装を出して見せる。
「コレ、菊に着て貰いたくて持ってきたんだ」
「これは…」
それは黒のベルベットで作られた中世フランスのアビ・ア・ラ・フランセーズ(男子宮廷服)だった。
控えめながら美しい金糸銀糸の刺繍やふんだんに使われたフリルとレースから中世フランス宮廷文化の華やかさが一目で分かる代物だったが、アビ(上着)やキュロット(膝丈のズボン)のボタンは全て銀製のドクロに替えられていた。
羽根付きのトリコルヌ(三角帽)にも銀製のドクロのモチーフが付けられている。
「元は俺が昔着てたヤツなんだ。それを菊の身体に合わせてちょっとだけ仕立て直しして、ゴスロリっぽくしてみた」
「………」
フランシスが自分の為に仕立て直してくれた…、元は彼が着ていた服。
「……でも私には似合わないと思います」
正直嬉しかった。しかし、嬉しいと言う事、着たいと思う事と、「着て似合う」という事は別物だ。
東アジア特有のシンプルかつ地味顔の自分が、こんなに華やかな衣装を身に付けても衣装負けするのがオチだ。
「大丈夫!俺がきっちりメイクするから!」
「………」
笑顔とウィンクに押し切られ、とうとう菊もイベントに参加することになった。


MadHatter's TeaPartyは貸切のギャラリーで行われている即売会とお茶会、撮影会、そしてアマチュアバンドのライブのイベントだった。
参加費はそれなりにしたが、室内の雰囲気も手間がかけられており、スタッフは皆アリスの衣装を身に付けている、主催者のこだわりが見えるイベントだ。
即売会ブースには企業や個人がフリーマーケット形式で衣装や小物を販売している。
撮影ブースには墓場や薔薇園の背景が設置してあり、各々がモデルに許可を貰えば自由に撮影できるようになっていた。
お茶会ブースはいくつかの丸テーブルに4〜5脚の椅子が置いてあり、気の合った仲間たちとお茶を飲みながら楽しめるようになっている。
前方には舞台があり、後半はゴスロリ系のバンドのライブが行われるようだ。
この界隈では老舗的な存在らしく、参加者も多く、そして皆レベルが高い。

男子更衣室はとても空いていた。
フランシスの用意した衣装を着けるとヘアバンドで前髪を上げられ、メイクを施される。
まるで彼の着せ替え人形になったような気分でぎこちなく半目を閉じてされるがままに飾られていく。
普段とは違うフランシスの真剣な視線に、菊の心音が高鳴る。
――何よりも美しいものが好きな愛の国。
美を生み出す為のその真剣な表情に、この名は伊達ではないのだと改めて思い知らされた。
「よし、完成!」
その言葉と共に、フランシスの表情が優しく明るく変わる。
「菊は綺麗な黒髪だからね、それを生かすためにコントラストはきつめにしたよ」
そう言って渡された手鏡の中には普段のシンプルでボーっとした童顔とは別人が映っていた。
「…これが…、私ですか…」
西洋の仮面のような妖しさすら漂う自分の顔に、菊は驚きと違和感を感じながら魅入った。
更に、大きな十字架のネックレス、月のモチーフのマグネットピアス、薔薇の指輪、付け爪、コサージュなどで飾り立てられる。
「トレビアーン!」
そう呟いたときの「どや顔」が、さっきの真剣な顔とどうしても重ならなくて、菊は思わず噴出した。

「それじゃ俺も着替えようかな」
フランシスの衣装は紅い襦袢に黒の着物だ。
背中にドクロが白く染め抜いてあり、裾には紅い薔薇の花が描かれている。
「着付け、手伝いましょうか?」
外国人のなんちゃってな着方ではすぐに着崩れてしまうと思って声をかけてみたが
「大丈夫!こう見えても俺は茶道を習ってるんだから」
と返された。
近頃、フランスでも「茶道」がブームである。
元々「茶道」は「禅」から来ているものであり、「禅」は仏教である。
異教に厳しいカトリックの国に仏教の流れが入り込むなんて、と最初は菊も驚いていた。
しかし彼の国では禅を宗教としてみるというより、心地よい規律の中で、自分を静かに見つめる、という心と体のバランスを取るためのプラグマティックな方法として取り入れているようである。
最初は洋服のまま、椅子に座って…というスタイルだったが、最近は和装に正座でのお茶会もなかなか様になってきている。
さっさと和装に着替えてメイクを終わらせる。
着流しの着物を意図的に着崩して完了。
流石、元がいい人はどんな服を着ても良く似合う。
フランシスの頭から爪先まで何度も見つめてその完璧さにため息を漏らした。
「ん?なに?俺に惚れた?」
ニヤニヤと笑いながら投げキッスを飛ばしてくるフランシスからにわかに視線を逸らし、菊は頬を染めた。
「そ、そろそろ行きましょうか…」
恥ずかしい上に手持ち無沙汰だったのでついフランシスを急かしてしまった。


二人は更衣室を出て会場に入った。
会場に入った途端、周りからざわめきが起こった。
それはそうだろう、ただでさえゴスロリは男性の数が少ないのに、そこへ本物の金髪碧眼のイケメン外国人がやってきたのだから、注目の的になるのは当然だ。
「すみませ〜ん、写真いいですかぁ?」
イチゴな白ロリ少女が声をかけてきた。
それを引き金に女の子たちがカメラを片手にわらわらと寄ってくる。
会場はすっかりフランシスの撮影会になってしまった。
菊も何人かに誘われたが「写真は苦手なので」と断ってしまった。
そんな様子を見ていたフランシスが
「菊!一緒に写ろうぜ」
と、菊の手を引き、彼のパーソナルスペースに菊を引き込んだ。
「……!!」
突然のことでバランスを崩し、フランシスの胸に飛び込んで抱きついてしまった。
すると女に子達の間から黄色い歓声が上がる。
「お二人ご一緒のところを撮ってもいいですかぁ?」
「勿論!」
菊を後ろから抱きしめて、フランシスが女の子たちにウィンクを飛ばす。
「ちょっ…!フランシスさん!」
顔を真っ赤にした菊が、汗で湿った手でフランシスの腕を振り解こうとする。
「ノンノン!駄目だよ菊。今の君は俺が丹精込めて作ったお人形さんなんだから、そんな表情をしちゃいけないよ」
そう言って墓場の撮影用背景の前にあるベンチに菊を座らせた。
「S'il vous plait.」
そう言ってにっこり笑う彼は昔の少女漫画に出てくる『王子様』そのままだ。
言われるままにベンチに腰掛けると、隣にフランシスも腰掛けた。
「今の君はいつもの可愛い君とは違うんだぜ?このメイクをしている間は、エキセントリックな美少年を意識してほしいなぁ」
肩を抱かれて耳元囁かれる。フランシスの生暖かい息が耳にかかり、菊はくすぐったくて肩をすくめる。
その様子がまるでキスしているように見えたようで、黄色い歓声と共に大量のフラッシュが焚かれた。
「〜〜〜〜…っ!」
恥ずかしさで俯き、目を閉じる。
「ノン!カメラを向けられているときはちゃんと目線をそっちに向けないと!」
「え…?あ、は、はい…」
ダメ出しをされて少し驚いたように顔を上げた。
「折角撮ってくれるんだから、一番いい顔をしないと失礼でしょ?」
「…すみません…」
慣れない事が続いて少々疲れていたが、早く終わらせる為にもちゃんとしなくては、と正面を向く。
「無理ににっこり笑ったりしなくていいよ、ちょっとアンニュイな表情の方が似合うと思う」
今日のフランシスはまるで菊のプロデューサーだ。
でもそんな風に仕切られるのが嫌ではなかったし、むしろ嬉しかった。

いくつかポーズのリクエストを受けて二人の撮影は終わり、今度は女の子たちと一緒に写真を撮った。
「お疲れ様」
お茶会ブースで脱力している菊に、フランシスがドリンクコーナーからアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「あ…、すみません。気が利かなくて…」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「ノン!気にしないで。それよりこっちこそごめんよ、何だか菊、疲れてるみたいだから早く帰ろうか」
「…撮るのは結構好きなんですけどね…、撮られるというのは慣れていなくて…」
「何を撮るの?電車?」
「電車も撮りますよ、あと最近は工場とか団地とかもよく見に行ったりしています」
「へぇ…、そういうのはどういうところが面白いの?」
「高度成長期に出来て古くなったコンビナートや製鉄工場、マンモス団地とかですね
 規則正しく並んだ、古びた団地などは何とも云えない哀愁が漂っていて…見ていて切なくなります。
 自分たちの再出発はここだったんだなぁという気分で…なんというか、郷愁…に近い気持ちですね。
 工場なんかも、古くなって錆付いた扉とか、夜中にライトアップされていて煙突から煙がもくもくと出ているところとか、…時間をを忘れて見入ってしまいます…」
自分の得意分野を嬉しそうに話す菊に、フランシスはカフェ・オ・レを飲みながら「Ah, Bon」と相槌を打つ。
「すみませぇん、ご一緒してもいいですかぁ?」
先ほどの撮影の時にカメラを握り締めていたと思われるゴシック系の少女3人組が声をかけてきた。
「Oui!mesdemoiselles, S'il vous plait.」
フランシスは立ち上がり、少女達に一礼して椅子を勧めた。
少女達は嬉しそうに椅子に掛け、自己紹介をしてきた。自己紹介といっても本名ではない。「ナントカ姫」みたいないわゆる通り名である。
フランシスは自らを「クロード」と名乗り、菊のことを「シャルル」と紹介した。
フランシスと少女達で、ファッションのこだわり、好きなブランドや良く行くショップ、流行のゴスロリバンドの話が弾んでいる。
菊は入っていけなくて、時々意味もなく相槌を打ちながら、心の奥底から湧いて出る何とも形容しがたいもやもやとした気分にイライラしていた。
テーブルにあった椅子は5脚で定員だったが、周りにも何人かギャラリーがいる。皆フランシスの言動に注目している。
「……」
今までの歴史の中でヨーロッパの国々、いや、世界で一番社交的なのはやはりフランスだろう。
その中にはいろんな計略や画策もあってのことだろうが、菊にはとても真似出来ない。
このモヤモヤは、自分が出来ないことが出来る彼に対する嫉妬か、それとも見知らぬ外国人にも気軽に声を掛ける事が出来る少女達への嫉妬か…。

お茶会終了のアナウンスが入り、場内は薄暗くなる。
この後、場内を片付けて、アマチュアバンドのライブが始まる予定だ。
フランシスはライブにも興味があったが、菊が疲れている様子だったので、帰ることにした。
「…もったいない」
更衣室でフランシスはジレンマと戦っていた。
「折角綺麗にメイクしたのを落とさなきゃならないって辛いわぁ…」
じっと菊の顔を見つめる。
「あぁっ!このままの菊を俺の家に連れて帰ってケースの中に飾っておきたい…」
菊は呆れて笑っていた。なかなか猟奇な発想だ。
それは菊が可愛いということか、それとも自分のメイクの腕前に陶酔しているということなのか…。
「でもこのままの格好で家に帰るのはちょっと…」
菊は着ていた衣装をさっさと脱いでシャツとジーンズに着替えた。
フランシスは残念そうに溜息を吐き、諦めて、自分も着てきた服に着替えた。
荷物をまとめ、帰り際にトイレの手洗い場でメイクを落として会場を出ようとした時、後ろから声をかけられた。
「あの…、ライブ観ていかれないんですか?」
先ほど一緒にお茶を飲んでいた少女達だった。
「え?…うん、今日はもう帰ろうかなって、ね」
そうフランシスが答えると、少女達は小さな声で「ほら言ってみてよー」「あんたが言ってよっ」と何か短い打ち合わせを始め、意を決した一人が前に出て
「あの…よかったら2次会行きませんか?」
と、恥ずかしそうに言ってきた。
「…えー…、と」
フランシスがちらりと菊のほうを見る。
「ごめん、今日は彼がちょっと疲れちゃったみたいだから…」
と言ったところで、菊が言葉を遮った。
「あの…、私はひとりで帰れますから、いいですよ。
…忙しい中を折角遊びに来てくださったのに、フランシスさんが私のために行きたい所に行けないというのは…私も辛いですから」
言っていることは間違ってはいない。
自分のせいでフランシスがしたいことを我慢するというのは菊にとっても不本意なことだ。
でも…
「そうか、分かったよ、じゃあ俺行ってくる」
「………」
菊は一瞬微かに驚いたような表情でフランシスを見上げ、俯いた。
そして、再度顔を上げ二コリと笑った。
「はい、行ってらっしゃい。あまり遅くならないように気をつけてくださいね?」
申し訳なさそうな顔をしつつ、フランシスは少女達と行ってしまった。
フランスが角を曲がって見えなくなるまで菊は笑いながら手を振っていたが、姿が消えると俯いてため息を付いた。

…何やってんだろ、私。

手元に残されたキャリーバッグに視線を落とす。
正体不明のモヤモヤに胸を圧迫され、息をするのも面倒な気分だった。
帰りの電車の中で一人座席に座っていると、隣の席の十代の少年のヘッドフォンからの音漏れが非常に不快だった。
中学生くらいの女の子たちのグループが甲高い声で楽しげに話しているのも癇に障った。
連結器の上でいちゃいちゃしているカップルが鬱陶しい。
ベビーカーを畳まず、子供を乗せたまま乗車している主婦にもイライラした。
「………」
誰かと一緒ならあまり気にならないことなのに…、少なくとも昼前にフランシスと同じ電車に乗っていた時にはこんなことは気にならなかった事が、一人の今では周りの何もかもが気になって仕方がない。
周りに誰もいない一人は楽しい。
でも周りに人がいる中で自分だけが一人なのは…苦しい。
今頃彼は何をしているのだろう
自分と全く反対の存在…、明るくて、お洒落で、積極的で社交的な少女達とブティックめぐりだろうか、それともカラオケボックスだろうか…。
ゴスロリ少女達は同じ趣味の男性との出会いが少ない分、一度出会いがあればかなり貪欲だと聞いたことがある。
元々ある種のシニカルな雰囲気を持つ彼女たちは、仲間内で一人の男性を取り合って、刃傷沙汰や、心を病んだ末の自殺に走ったりすることすらあるという。
「……」
唇を噛み、小さく首を横に振る。
それは極端な例としても、やはりフランシスだって若く可愛い少女達に言い寄られれば悪い気はしないだろうし、むしろ「据え膳食わねば〜」的な雰囲気にだってなるかもしれない。
「……」
菊の心臓が苦しそうにドクン、と大きく脈を打った後、サーっと血の気が引いたような気がして頭がクラクラしてきた。
…これ以上考えるのは止そう。
電車を降り、キャリーバッグを引きながら家路に向かう。
「…ただいま」
ポチ君の出迎えは激しい。
ちぎれそうなほど尻尾を振り、飛びついてくる。
「ただいま、ポチ君」
そう言って抱き上げると、今度は菊の顔中を嘗め回す。
ドッグフードの臭いの息を吐きかけられ、菊は苦笑した。

一人夕飯を済ませ、何気なくテレビを点けた。しかし、これといって面白い番組はない。
ポチ君が座布団の上にゴロンと横になって尻尾をぱったんぱったん動かしがらテレビを観ている。
「……」
菊は座布団を折って枕にし、天井を見上げた。
彼にとって自分は何なのだろう…。
 愛を語り合おうといわれた。
 キスされた。
 一緒の布団で腕枕で寝た。
ただそれだけ。
「…はぁ…」
前に彼が止まりに来たときの事を思い出して顔を赤らめた。
「…単に弄られてるだけ、ですよね…」
思わず声に出してつぶやく。
「……」
眉間に皺を寄せ、唇を噛んだ。
そうだ、確かに彼は菊に対して思わせぶりな言動をとってきた。
しかしそれは彼のデフォルトであり、今まで誰にでも似た様なことをしてきているし、彼にとっては全く特別なことではないのだ。
ただ自分が勝手に彼の言動に浮かれていただけなのだ。
多分今頃はワインを片手に少女達にも愛を語っている頃だろう。
そうに違いない。

つまらないテレビ番組の音声が気に障る。
テレビがつまらないのは自分がつまらない存在だからだ。
フランシスだって団地や工場の話を聞くより、女の子と流行ファッションについて語り合う方が楽しいに決まっている。
彼と自分はただの友達。
友達だから泊まりにきて、一緒に遊びに行った。
遊びに行った先でもっと面白そうなことがあったからそっちに行っただけ。
それだけの事なのに、何故こんなに苦しいのだろう…。



「…2次会、お楽しみだったようですね」
聞きたいことはたくさんあった。
どこに行ったのか、どんなことをしたのか、何がそんなに楽しかったのか、彼女たちはどんな風に魅力的だったか…。
「うん、たのしかったよー」
アルコールで間延びした、上機嫌な声が余計に菊のイライラを増長させる。
「…お水、持ってきますね」
と言い終わる前に、立ち上がったフランシスに、にわかに後ろから抱きしめられた。
「……!!」
菊は飛び上がりそうなほど驚く。
「でも…、菊がいたほうがもっと楽しかったのになぁ…」
その台詞に心臓が反応する、急激に血の巡りが良くなり、顔が熱くなった。
「…なっ…、だって…、フランシスさんは…、その…」
後ろから強く抱かれ、アルコールのせいで普段より高い体温が背中越しに伝わってくる。
心臓がフル稼働し、耳鳴りがして頭がくらくらしてきた。
「…だって俺は、菊のことが一番…」
耳元でそう囁かれ、背中がゾクゾクする、
「…〜〜〜!!」
が、その直後、千鳥足のフランシスはバランスを崩して菊のほうに前のめりになった。
「うわぁ!」
板張りの床にもつれるように倒れ込む。
「フランシスさん!大丈夫ですか!?」
床とフランシスに挟まれた状態から脱出し、力なくマグロのように横たわるフランシスの身体をゆすった。
フランシスの腕がすっと伸び、菊の頬に触れる。
「…キスしたい…、してもいい?」
真顔でそう言われ、菊は眉間に皺を寄せた。
「…我が国では、キスをするのは好き合っている者だけです」
フランシスがにっこりと笑う。
「菊は俺のこと好きだろ?俺も菊のことが好きだよ」
「………」
何か分からない、すごく強い力に流されそうになっている自分を必死に止める。
「……酔っ払いの言葉は信じません」
そう言い放つのが精一杯だった。
「…お水、持ってきますね」
にっこりと笑いかけ、菊は台所に向かった。
足がふらふらしている。敷居に躓かないようにしなければ、と変なところが冷静なのに、台所に着くと何をしに来たのか分からなくなって、暫く立ち尽くしてしまった。
『菊は俺のこと好きだろ?俺も菊のことが好きだよ』
先ほどのフランシスの台詞が頭の中でリピートする。
――…落ち着け、あれは酒の上の冗談に決まってる。
両掌で頬を軽く叩き、大きく深呼吸をする。
コップに水を汲み、自分で飲み干した後で、フランシスに水を持っていくことを思い出した。

フランシスは既に寝息を立てていた。
菊が強く身体をゆすっても起きる気配はない。
「…しょうがありませんねぇ…」
このままここに寝かせておく訳にもいかないので、自分より大きなフランシスの身体を背負って客間まで運んだ。
しかし、客間に着いたところで、布団の縁に躓いて、フランシスを背負ったままこけてしまった。
「うわぁぁぁ!」
再度フランシスの下敷きになり、脱出しようとしたところで、眠ったままのフランシスに強く抱きしめられた。
「………!!」
酒臭い熱い息が顔にかかり、息が苦しくなる。
彼が吸い込んで吐いた息を菊がまた吸い込む…、なんだか間接キスのようだと思うと急に恥ずかしくなった。
「フランシスさん…、起きているんでしょう?ねぇ…フランシスさん…っ」
しかし応答はない。
「………」
暫くもがいてみたが逃がしてもらえない。
仕方がない、このまま暫くこの状態で居よう。
…「仕方がない」とはなかなか便利な言葉だ。
彼が抱きしめて離してくれないから「仕方ながない」からこの状態に甘んじているのだ。

柱時計が0時を告げる。
今日は疲れたのに、多分まだ暫くは眠れない。
眠れないついでに、明日のことを考えてみる。
明日、彼にどんな顔でおはようを言えばいいか、今日のことをどういう風に聞き出そうか…
出来れば笑って話したい。
彼と自分は良い友達なのだ。変な感情を交えるべきではない。
笑って済ませられるならそれに越したことはないのだ。


――二人の距離が縮まるのはもう少し先の話になりそうだ。



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