未来予想図
ノックの音がする。
「はい」
菊が答えると、カタコトとせわしない音がして、ドアが開いた。
「…ホンダ、ご飯できたよ。」
うれしそうにキッチンワゴンを押して部屋に入ってきたのは彼の恋人の息子だった。
ワゴンに乗ったトレイの上には、所狭しとおびただしい量の朝食が載っている。
バゲット(パン)、ヒヨコマメのペースト、オリーブ、まるでササミのような焼いたヘリムチーズ、チョバンサラタ(羊飼いのサラダ)、
カリカリに焼いたスジュク(サラミ)、チーズの入ったとろとろのメレメン(オムレツ)
薔薇のジャムにヨーグルト、そして湯気の漂う熱いチャイ。
「なんと豪勢な朝ごはんですね」
その量と種類に圧倒される。
菊の家の朝ごはんは、大抵が米飯に魚の干物、味噌汁とお浸しに漬物程度である。
忙しい朝はトーストとコーヒーだけになることすらある。
「…サラタは俺が作った」
殊勝な表情がまた愛らしい。
菊はベッドから上半身を起こした。
「…大丈夫?体、痛くない?」
幼子の気遣いが心に刺さる。
彼には、深夜、酒に酔ったせいで階段から落ちたということにしてあるのだ。
…本当は、昨夜、彼の父との情交があまりに激しくて腰が抜けたのと、筋肉痛でベッドから起き上がれないのだった。
酔って階段から落ちた自分が何故サディクの寝室で寝ているかという所は謎である。
昨夜、彼と朝食を一緒に食べる約束をしていたので、今朝は特別に寝室で朝食を取る事になった。
「ホンダ、大丈夫か?」
再度ドアが開き、菊が動けなくなった原因の張本人が、折りたたみ式のテーブルとダイニングルームの椅子を持って入ってきた。
「………。」
昨夜の事を思い出し、恥ずかしくて目を逸らす。
「ジジイは身体が硬くていけねぇなぁ」
テーブルの足を伸ばしながらニヤニヤ笑うサディクに何か投げつけてやりたい衝動に駆られるが、ジュニア(北キプロス)の手前なのでぐっと堪えた。
「ほら、ジュニア、自分の椅子は自分で持ってきやがれ」
ジュニアが部屋を出たことを確認して、サディクは菊の座っているベッドに乗り上がり、彼の顔中にキスの雨を降らせた。
「…さっ…サディクさ…」
「愛してる。」
止めてくださいという前に言葉をさえぎられる。
「……飯よりもアンタを食っちまいてぇ、…俺だけの可愛いバラの砂糖菓子…」
朝食の前から胸焼けがしそうな台詞に脱力し、返す言葉が見つからないまま菊はされるがままにキスを受け止めた。
部屋の外からガタガタと音がする。
ジュニアが頑張って自分の椅子を運んできたようだ。
菊がはっとドアの方を見てサディクの顔を押し退けた。
サディクはしぶしぶベッドから降り、息子の為にドアを開けてやった。
テーブルに朝食を並べ、菊の膝の上のトレイにも取り分けられたおかずとチャイが乗せられる。
トルコでは休日の朝は1時間くらい時間をかけておしゃべりを楽しみながら朝食を取るのだそうだ。
菊たちも、ジュニアの友達のピーター・カークランドの話や日本で流行っているアニメの話、トルコのお茶は元々は日本が原産、トルコが原産のさくらんぼは日本では高級な果物、などと云うような話や、春に咲く花々の話などをしながらゆっくりと朝食を取った。
楽しい食事の時間が終わり、後片付けが始まる。
サディクが食器の乗ったワゴンを押す。
「椅子とテーブルを片したら台所の片付けを手伝いに来いよ」
息子にそう言ってドアを開けたまま廊下に出た。
「…ねぇ、ホンダ?」
サディクの足音が遠ざかっていくのを確認し、奥歯に何か引っかかったような、少し不明瞭な声で菊の名を呼ぶ。
「はい?」
「…サディクと、…結婚するの?」
少し眉を寄せ、俯いてぽそりと呟くような声でたずねる。
「…え…?」
菊の顔が引きつったまま固まった。
心臓がバクバクと音を立てているのが分かる。
顔が熱くなり、腋から嫌な汗が出た気がした。
…昨夜の事を見られていたのか?
そう思うとこの幼子の顔がまともに見れない。
「サディクさんは…、素敵な方だと思いますが…、結婚とか…そういうことは…先ずありません」
彼の望む答えが分からないまま、俯いて、少し申し訳なさそうに云う。
「…それは…、…俺が居るから?」
恐る恐るそう尋ねる彼に、菊は小さく首を傾けクスッと笑った。
「関係ありませんよ」
彼は彼なりに自分の立場を考え、父であるサディクに迷惑をかけたくないと考えているのだろう。
そのいじらしさに少し胸が切なくなった。
「私にも…息子がいたんですよ」
そう口に出して、菊は少し黙り込んだ。
「……」
今でも思い出すと胸が苦しくなる。
「…望まれて生まれた子ではありませんでした。でも…私にとっては不安定な時世の少ない希望であり…、…理想郷でした…」
腹に置いた手がぎゅっとこぶしを握る。
「彼がより良く成長する為に、私は何でもしました。私は彼の父であり、母であり…兄であり、師であり、妻でもありました…」
一つ、大きく呼吸をして俯き、目を閉じた。
「…でも、…彼はたった十四年で、……亡国となってしまいました…」
困ったような顔でじっとこちらを見つめる恋人の息子に、菊は心配するなと言う代わりに微笑みかけた。
「…まだね、色々と吹っ切れないんですね…。だから、今は誰とも結婚とかそういうことは考えられないということです」
世界中を敵にした戦争は、菊の心と身体に深い傷を残した。
あれから半世紀、菊は忘れることで痛みを消しただけで、傷自体はまだ癒えていない。
薄皮一枚張っただけの皮膚の下はいつ血が吹き出してもおかしくない状態なのだ。
近世の時代の激流に流され、菊は傷と向き合うことすらまだ出来ていなかった。
「…ねぇ、ホンダ」
大地の色の瞳がじっと菊を見つめる。
「いつか…、色々吹っ切れたら…。…俺の事、好きになってほしい…」
「…え?」
一瞬何のことか分からなかった。
「…ホンダがサディクと結婚しないなら、…俺にだってチャンスはあるよね?」
そう語る瞳は真剣だ。
「……――?」
菊は軽く混乱していた。…まさかそう来るとは思っていなかったのだ。
「え、…あの、えと、…その…」
いつもならここで愛想笑いを浮かべながら「善処します」「考えます」「その話はまた今度…」と煙に巻くところだが、幼子の真剣な瞳に押されて答えを失ってしまった。
「…俺、…それまでに頑張って一人前になる、…だから」
ゆっくりと彼の顔が菊の顔に近づいてくる。
ちゅ、と短く菊の唇に唇が合わさった。
「俺の事…好きになって」
菊はまばたきをすることすら忘れ、どうすればいいか、何を言えばいいのか必死で考えていた。
その時、
「おーい、ジュニア!椅子とテーブルは片付けたのか!?」
部屋の外からサディクの声が聞こえてきた。
「…、…今行く」
眉を寄せ、ちょっとムッとした表情でドアの向こうに答えるその顔は、早熟な「男」の顔から子供の顔に戻っていた。
ドアが開き、サディクが入ってくる。
「本田が来てるからってちんたらしてんじゃぁねぇってんだ、仕事は他にもあるんだぜ?」
「…わかった」
そう言ってジュニアは椅子を持ち上げ、ちらりと菊の方を見、名残惜しそうに廊下に出た。
「…全く…」
サディクは大きくため息を一つ付き、菊の座っているベッドに腰掛けた。
「親父の恋人に手ェ出すなんて、ふてぇ野郎だぁなぁ」
菊の肩を抱き、ニヤニヤと笑う。
「…聞いてたんですか?」
返事の代わりの短いキス。
菊はバツの悪い顔で上目遣いにサディクを見る。
「聞こえたんでぃ、人聞きの悪りぃ事言ってんじゃぁねぇよ」
「……」
菊は俯いて黙り込んでしまった。
「…まぁ、なんでぇ、その…、焦んなくていいんだぜ?」
「…すみません」
そう言って菊はサディクの鎖骨の辺りに頭を置くように寄り掛かった。
額に触れる彼の髭が少しくすぐったい。
こんな風に、他人に抱きしめられ、寄り掛かるのはいつ以来だろう。
明治維新の後、欧米に追いつけ追い越せと駆け足を始め、軍事大国となってからは家族の前でも隙を見せることを善しとしなかった。
戦争に負け、再び這い上がる為に夜に日を継いで走り回り見事復興を果たした。
自国の経済だけでなく、欧米に負けじと東アジアに経済ブロックを立ち上げるべく奮闘し続けた。
「孤高」
そういえば聞こえがいいだろうが、菊にはずっと本心を晒す場所が無かったのだ。
実のところ、サディクの大らかな人柄に手放しで甘えることも、逞しい身体に自身の身体を預けることにもまだ何となく馴染めず、分不相応な気さえしている。
「…あの…」
そう切り出した瞬間、シーツの中からアメリカ国歌が聞こえてきた。
「…!」
それは昨夜着物の袂に入れたままベッドの中に持ち込んだ菊の携帯電話だった。
「…あ…」
急いでシーツをたくし上げ、携帯を探す。
アルフレドからの電話だというのは多分サディクにも分かっているだろう。
彼は多分嫌な顔をしているに違いない。
でも、電話に出ないわけには行かない。
足元で震えている携帯を見つけ、手を伸ばしたが、先にサディクに取られてしまった。
「…あ、すみません、サディクさん」
そう言って携帯を受け取ろうとしたが、サディクは菊のほうに携帯を差し出さない。
「先ずは…、こんな事からやってみちゃどうだい?」
サディクはにやりと笑って携帯の電源をオフにした。
「!!」
菊はあっけに取られ、受け取った携帯をまじまじと見つめる。
そして悪戯に成功した子供のように笑うサディクに目をやり、少し呆れた顔で、小さくため息を付いて笑った。
「今度から、ウチに来た時ぁ携帯の電源は切っておくこった」
「…はい」
そう言って菊は電源を切ったままの携帯を袂に仕舞った。
「…サディクー、台所はー?」
ドアの向こうからジュニアの声がする。
「わぁったよ!今行くからちぃっと待ってろぃ!」
そう言って菊の額にキスをして立ち上がった。
「…ったくよぉ、ちったぁ親父に気ぃ使えってんだ」
ブツブツと文句を言いながらドアを開ける。
そんなサディクを見て菊はクスッと笑った。
袂の携帯を取り出し、じっと見つめる。
そして昨夜サディクから「虫除けだ」といって貰った胸元のナザールボンジュウをそっと握り締めた。