三鼎‐ミツガナエ‐
                  
 「…三」

 三位一体、三本柱、三人寄れば文殊の知恵
 『三』は和の数。

 桃栗三年柿八年、石の上にも三年、仏の顔も三度まで
 『三』は反復、持続の数。

 第三者、三人称
 『三』は中立を表す数

 三角関係、三つ巴
 『三』は複雑さを表す数…。

微妙なバランスで保たれているこの関係を壊さないようにするにはどうすればいい?

望まなければいい
動かなければいい
我慢すればいい。

それでも欲しいものがある。
――――どうすればいい?
 「わー、菊ってすごーい!やっぱりニンジャの国は違 うね!」
書斎の奥からフェリシアーノの声がする。
キッチンからコーヒーとカップの載ったトレイを運んできたルートヴィッヒがその声の発信地に気づいてあわてて駆け込んできた。
「何やってるんだ!本田!フェリシアーノ!」
そこはバイルシュミット家の書斎の奥にある、隠し部屋の中だった。
「勝手に人の家の書斎を探検するな!子供かおまえらは!」
「すみませんルートヴィッヒさん。
 ちょっと書類のドイツ語表記でわからない所があって、辞書をお借りしようと思ってこちらに…」
菊が頬を赤く染めてコメツキバッタのように謝る。
「ルートヴィッヒ、何をそんなに大きな声を出しているんです?お下品ですよ」
手作りのアプフェル・ミット・シュトロイゼルクーヘン(林檎のケーキ)を載せたトレイを持ってローデリヒも書斎に入ってくる。
隠し部屋を見たローデリヒは眉間に皺を寄せてルートヴィッヒを睨み付けた。
「貴方という人は…、まだ『あんなもの』をこの家に置きっぱなしにしていたのですか!」
そこに、居間から、カフェー・ツァイト(コーヒータイム)が待ちきれなくなったギルベルトまでやって来た。
「オメーら何やってんだよ、まったく…、って、
あれー?」
驚きの声を上げ、その後はにやにやと笑っている。
「まだ持ってたのかぁ?お前、物持ちがいいなぁ」
それは壁四面、林立した書架いっぱいのポルノグラフィーや好色本だった。
男女の色事だけではなく、同性愛や拷問を性的に描いたものまで多彩だ。
「あははー、ウチの法王や枢機卿のコレクションより凄いよー」
「…俺が一人で集めたものじゃない」
隠していた趣味を曝け出され、気まずい中ルートヴィッヒが言葉少なに言い訳する。
「そうそう、昔っからこの家にあったんだよなー、俺が集めた分も入ってるし。
 まぁなんだ、ゲルマン民族の根底に脈々と息付いた本能みたいなもんだな」
両手を組んで、懐かしいものを見る目でギルベルトが言う。
ゲルマン民族の本能を「あんなもの」扱いしてしまった、その民族の一員であるローデリヒはバツの悪い顔になる。
「しかしまぁ…、よく見つけたものですねぇホンダ。
 一緒に暮らしている私ですら気が付かなかったというのに…」
「菊はねー、ニンジュツの使い手なんだよー」
「へぇ〜、どんな忍術でこの隠し部屋を見破ったんだ?」
ギルベルトは興味深々だ。
「忍術って…別に超能力みたいなものじゃありませんよ。
 …先ず、指を舐めて唾液をつけます」
そう言って菊は己の指を口に咥え、唾液で濡らした。
「そして壁にその指を持っていって、指に神経を集中します。
 濡れた皮膚は普段より敏感に風を感じます。
 突然「ヒヤリ」としたら空気が動いている証拠です。
 その近くに風が通る隙間があるので注意深く探します」
そう言いながら、菊は壁を指して神経を集中させる。
フェリシアーノやギルベルトも菊の真似を始めた。
ルートヴィッヒは嫌な汗をかきながら横目でその様子を見ている。
「…この部屋に、もうひとつ隠し扉がありますね?
ルートヴィッヒさん」
図星を衝かれ、ルートヴィッヒはビクッとして驚く。
「な、な…!」
本棚の横に回って、木彫りの装飾部分を指差す。
「ほら、こんな風に不自然に色あせたり手垢のついた場所があるとわかり易いですね」
それは葡萄のモチーフを彫り込んだもので、その中の一粒が妙に色あせ、黒ずんでいた。
「あーあ、アレかぁ!」
ギルベルトがポンと手をたたく。
「そう言えばこの部屋にないって事は、別の部屋に隠してあるってことだよなぁ」
「もういいだろう!ほら!折角のコーヒーが冷めてしまうぞ!」
これ以上秘密を曝されてはたまったものではないと、ルートヴィッヒはフェリシアーノの襟の後ろをつかんで出口のほうに引き摺った。
「えー、何でー?見たいよー」
と言いながら、一応は抵抗してみるが、フェリシアーノはそのまま書斎の外まで引き摺られていった。
「……」
その様子を菊が複雑な表情で見つめている。
「そうそう、コーヒーがぬるくなっちまう、さっさと行こうぜ?」
ギルベルトが菊の後頭部にぽん、と掌を置いて前に進むよう急かす。
「あ、…はい」
我に返ったような顔で菊はルートヴィッヒが置き忘れたコーヒーとカップのトレイを持ち、部屋を出る。
クーヘンのトレイを持ったローデリヒが後ろに続いた。


 「ねぇねぇ、さっきの隠し扉の向こうって何があったのー?」
クーヘンをほおばりながらギルベルトに尋ねるフェリシアーノ。
「過度の詮索はおよしなさい、嫌われますよ?」
ローデリヒに柔らかくも鋭い一喝を貰うも、諦めきれない気持ちが顔全体からにじみ出ている。
当人のルートヴィッヒは無言のまま眉を寄せ、目を逸らしている。
「すみません、ルートヴィッヒさん。私が勝手なことをしたせいで事が大きくなってしまって…」
菊は申し訳なさそうに頭を何度も下げた。
「拷問部屋だよ」
カップのコーヒーを飲み干して一息ついたギルベルトが他人事のように言い放つ。
ピクン、とローデリヒが小さく反応した。
「へぇ〜、そんなものなんでかくすのさー」
拷問などとは縁遠く見えるフェリシアーノだが、やはりヨーロッパ人の彼も中世にはありとあらゆる拷問を目の当たりにしている。
それに今は戦争中で、敵味方関係なく怪しい人間は拷問にかけられておかしくはない。
拷問部屋などはわざわざ隠す必要など無いのだ。
「フェリちゃんには理解できねぇかなぁ〜」
ギルベルトはニヤニヤ笑いながら言った。
「…さっきの隠し部屋の様子からして、性的な虐待を加えるための部屋…、と言うことでしょうか?」
菊がゆっくりと口を開く。
「ご名答!さすがは菊、なかなか勘が鋭いな」
「兄さん!」
耐え兼ねてルートヴィッヒが口を挟む。
「本当に、男色とか拷問とか…、神を冒涜する行為です、許されることではありませんよ」
ローデリヒはギルベルトとルートヴィッヒを睨み付けた。
「…あの…」
戸惑い気味に菊が問いかける。
「何ですか?ホンダ」
「…前から疑問に思っていたのですが、何故男色が神を冒涜する行為なのでしょう?」
「え?」
その場にいた、菊以外の四人が一斉に菊の疑問に対して更なる疑問符を投げつける。
「何を言ってるんですか、子孫繁栄以外の性行為は神への冒涜です、
 …貴方からそう言う台詞を聞くとは思いませんでしたよ」
それでも眉間に皺を寄せ、ローデリヒの説明が理解できない菊を見て、ギルベルトは思い出した。
「あぁ!そうか…、菊はキリスト教徒じゃない、だから基本的な考え方が違うんだ」
四人の納得した顔が菊に向けられる。
「………」
こういう時、やはり自分は異邦人であると言うことを痛感させられる。
「シントウやブッキョウでは男色は許されることなのか?」
信じられない、と言う表情でルートヴィッヒが尋ねる。
「はい、仏教では男尊女卑の考えが強く、女性は不浄なものとされていました。
 だから僧侶は女性と深く関わってはいけない事になっています。
 その代わり、『色子』と呼ばれる少年を傍において性欲処理を行っていました。
 戦国時代になると、戦場に女性を連れて行くことが出来ないので、武将はお気に入りの少年を部下にして、女性の代わりをさせていました。
 江戸時代になると男色は庶民文化にも入り込みます。
 男性役者のみの歌劇である『歌舞伎』の女役の見習いや、雇いの少年たちに客を取らせる『陰間茶屋』が出来ました。
 江戸の住人は圧倒的に男性の方が多かったのも男色が流行った理由のひとつかもしれません」
ローデリヒが野蛮なものを見る目つきを菊に向けた。
「まぁ、禁じようが禁じまいがホモセクシュアルってモンはこの世から消えやしねぇってことだな」
それに気づいたギルベルトがローデリヒの後頭部を小突く。
「そうですね、うちでは男色のせいで出生率が下がったと云う記憶もありません
 性というものは生活の営みのひとつですから、迷惑をかけないようならそれなりに楽しんでもよいのではないでしょうか…」
「そうだな、お互いの合意があって、他人に迷惑をかけないならいいのかもしれないな」
妙に納得した顔のルートヴィッヒを見て、菊は安堵した。
ルートヴィッヒには自分の文化が変だとか、野蛮だとか思われたくはなかった。
「でも俺は女の子の方がいいなぁ〜」
あくびをしながらフェリシアーノが言う。そろそろシエスタの時間だろうか。
「そうですね、人それぞれだと思います」
カフェー・ツァイトを終え、重ねた皿をトレイに乗せながら、菊はフェリシアーノに笑いかけた。

無邪気でマイペース、そしてそれがマイナスに見えようと到底憎めないフェリシアーノ。
少し厳しいところはあるけれど、基本的に楽天的で芸術への造詣が深いローデリヒ。
明治憲法作成の頃に色々と世話になった兄貴肌のギルベルト。
そして、道義と秩序を重んじ、自分にも他人にも厳しいが、決してそれだけではないルートヴィッヒ。
他にも、頼れるお姉さんのエリザベータにのんびり屋のティノ、ちょっぴり尖ったロヴィーノ、他にもあまり菊とはかかわりの少ない国々もいくつかある。
皆が菊を差別せずに接してくれる。
――「この場所」だけは無くしたくない。

諸外国との不平等条約
日英同盟
三国干渉
人種的差別撤廃提案への反対
四カ国同盟による圧力
日系移民の排除

開国以来、欧米諸国により菊は何度も利用され、裏切られ、蔑まれてきた。
「所詮は世界の端の野蛮な黄色い猿」、と。
そして悟った。彼らが自らを「正義」と言うのならば、その正義の頂点に立つしか生き残る術は無い、と。
この世は強さが正義なのだから…。
そんな折、ギルベルトから同盟の話を持ちかけられた。
「強い国が決めた正義」に押し潰されそうになりながら必死に戦っている彼らになら、自分の気持ちをわかってもらえる気がした。

家族(大東亜共栄圏)以外の世界にも「自分の場所」が在る。
そう思うことで菊は安心できた。
だから家族の次に大事な「この場所」だけは無くしたくなかった。
……しかしそこに誤算が生じてしまった。

「こらフェリシアーノ!こんなところで寝るな!」
既にソファで寝息を立てているフェリシアーノの襟首をルートヴィッヒが掴みあげる。
「ヴェ〜、だめだよぉ、眠いんだも〜ん」
「毎晩何時間眠っていると思ってるんだ!いつも人のベッドに勝手にもぐりこんで…」
ルートヴィッヒの小言の途中で、ギルベルトが叫んだ。
「菊!ソーサーがトレイから落ちる!」
ルートヴィッヒとフェリシアーノに気を取られて、菊が持っていたトレイが傾いていたのだ。
「……!」
はっと我に返った菊がトレイを持ち直し、ソーサーは何とか落ちずにすんだ。
「す、すみません!」
肝を冷やし嫌な汗が出る、深呼吸を一つして気を取り直した。
「大丈夫ですか?ホンダ、そのコーヒーカップもそれなりに歴史的価値のあるものですから丁寧に扱って下さいね」
「大丈夫です。これ、台所に返してきますね?」
カップとソーサーを乗せたトレイを持って菊は廊下に出た。
「……はぁ。」
今度はため息。こんな事で心が乱れるとは全く情けない。

枢軸同盟における菊の誤算、それはルートヴィッヒに特別な感情を抱いてしまったこと。


菊は昔から思っていたことがあった。
自分は他の家族と似ていない、と。
もちろん容姿は似ている。しかし民族性というものが全く違う。
狭い海を挟んだ隣の兄弟とも似てるとは思えない。
妹と息子(満州国)は自分と似ているかもしれないが、それはそういう風に自分が育てたからだ。
農耕民族だからかと思ったが、東南アジアや南アジアの兄弟たちとも違う。
島国で皆と離れて育った所為かとも思っていたが、他の兄弟でも島国は居るがやはり似ていないし、
泰西(ヨーロッパ)で同じ島国のアーサー・カークランドも似てはいない。

日独防共協定を経て、日独伊三国同盟を組み、交流を深めていくうちに、ふと、菊はルートヴィッヒと自分は似ていると思い始めた。
いくら憧れても、なる事は出来ない白色人種のルートヴィッヒの中に、自分と似た民族性を見つけた菊は彼の中に自分を投影し、惹かれていった。
それは一種の自己愛だ。
不完全な自分を、自分よりも優れた彼の中に見出すことによって自分自身も優れた者になった気になれる。
その様子はまるで宗教に盲従する信者のようですらあった。
そしてルートヴィッヒも菊の軍事力や技術力を高く評価し、天皇を尊敬し、神教を理解してくれていた。
それだけなら大円満だが、菊にはどうしても超えられないものがあった。
それは、彼らの思想の定義の一つである「世界には『三つの人種』がいる」という考え方だ。
1つは「文化創造種」、2つは創造種の創った文化に従う「文化追従種」。そして、これらの文化を破壊する「文化破壊種」。
彼の定義によると、一等種(文化創造種)はアーリア民族のみであり、日本人や他の民族は二等種(文化追従種)に過ぎないと言う。
それを思い出すたび、所詮自分はただの薄汚れたアヒルの子なのだと痛感する。
白鳥の雛に似てはいても、決して白鳥にはなれない存在なのだと言うことを暗に目の前に叩きつけられる。
フェリシアーノもアーリア民族ではないが、彼にはかなりの割合でゲルマン民族の血が流れている。
元々フェリシアーノとルートヴィッヒは祖父の代からの付き合いがあり、ルートヴィッヒはフェリシアーノの祖父を尊敬している。
昨日今日の付き合いの自分とは違うのだ。
いつも三人で居ると、ルートヴィッヒとフェリシアーノの二人と自分の間に見えない溝を感じてしまう。
自分の感情に素直なフェリシアーノがルートヴィッヒに無邪気に「大好き」と云う度、菊は羨ましくて妬ましくてフェリシアーノを憎みそうにすらなる。
そしてその自分の浅ましさにも嫌悪が募る。
それでも彼らと共に在りたいという気持ちは捨てられなかった。


家に帰ると東南アジアの弟が来ていた。
「兄ちゃんおかえりぃ〜」
こっちが落ち込んでいようと、怒っていようと、彼はいつもニコニコと笑っている。
菊より少し浅黒い健康そうな肌からは太陽の匂いがする。
「…ただいま」
気分が沈んでいる時にはあまり見たくない顔だ。
「今日はルートヴィッヒさんのところに行ってたんだろ?俺も連れてってくれたらいいのにぃ」
いやなこった。と心の中でつぶやく。
そんな暇があるなら一粒でも多くの米を収穫しろ。
「遊びに行っているわけではありません」
菊は軍服を脱いで着物に着替え、居間の紫檀のテーブルの前に座る。
弟は昔からルートヴィッヒのことが好きだったと云うことを菊は知っている。
第一次世界大戦の時も本当は同盟国側に付きたかったが、泣く泣く連合国側に付いたと聞いた。
だから今回の日独伊三国同盟に弟も参加したいと言ってきたが、菊は彼がルートヴィッヒと親しくするのが嫌で参加させなかった。
「あ、これ、今週の報告書〜」
農作物の輸送に関する書類と戦場の状況を書かれた書類に目を通す。
そんな菊を意味深な笑みで見つめている。
「俺さぁ、近いうちにルートヴィッヒさん家に公式訪問でもしてみようかなぁって思ってるんだぁ」
「…っ!! 」
にわかに菊の眉間に皺がよる。
「…彼は忙しい方です、いたずらに時間を取るようなことはおやめなさい」
「別に遊びに行くわけじゃないよぉ、それに枢軸国同士だしさぁ、連帯感を強めるってのもいいよねぇ」
「……書類に調印しました。用が済んだならさっさと帰りなさい」
報告書を叩きつけるように返す。
「兄ちゃんはまだルートヴィッヒさんに告白してないの?」
「…っ!!」
書類の上の指がぴくん、と反応した。
「…何を、馬鹿なことを…」
「兄ちゃんがしないなら、俺、告白してもいいよね?」
相変わらずニコニコと笑っている彼の本当の表情を読み取れず、菊は苛立ち始めた。
「私には関係の無いことです。…好きにしなさい」
平常心で答えたつもりだったが、声が上ずっている。
「俺、ルートヴィッヒさんの事好きだけど、兄ちゃんも好きだよ?」
「何を急に…」
「開国してからの兄ちゃんはずっと俺の憧れだったもん、だからもし兄ちゃんがルートヴィッヒさんとくっつくなら応援するよ」
「………」
菊は視線を右斜め下にやり、唇を噛んだ。
「告白してみなよ、もし振られたら俺が兄ちゃんのこと慰めてあげるからさっ」
…貴方に何が分かると言うのか…。
その言葉が喉まで出掛かるのを理性で飲み込む。
「コクるなら俺がルートヴィッヒさんちに公式訪問するまでにしてね!」
そう言って弟は立ち上がり、上着を取った。
「じゃあ今日は帰るね、あまり考え込むと眉間の皺が取れなくなるよ」
屈託のない笑顔には微塵の悩みなどなさそうだ。
「…気をつけてお帰りなさい」
菊は弟を玄関まで送り、彼が出て行った後、その出口を暫くにらみ続けていた。
「……貴方に、…何が分かる」
今度は口に出して呟いた。


「何でみんなホンダのしてることを頭から反対するのさっ!
 ホンダが王に戦争で勝ったんだろ?王はホンダに支配されても文句言えない立場じゃん
 みんなはホンダが上手いことやったから羨ましいんだろ?
 みんな中国が欲しいから、ホンダが中国に進出するのが面白くないんだろ?」
布団の中で目を閉じると、夢うつつにフェリシアーノの声が聞こえる。
菊が開国して初めての戦争に勝利し中国に進出すると、欧米の国々から圧力がかかってきた。
口々に菊を非難する声が上がる。
しかしその中で唯一菊をかばい続けてくれたのはフェリシアーノだけだった。
人種的差別撤廃提案にも快く賛成してくれたフェリシアーノ。
菊はフェリシアーノのことも大好きだった。
太陽の光をめいいっぱい浴びて育ったオレンジのような魅力的な笑顔。
長い間支配され続けていたとは思えないその明るさに菊は何度も救われた。
大好きなフェリシアーノ。
敬愛するルートヴィッヒ。
そしてフェリシアーノもルートヴィッヒが好きで…

別に菊のルートヴィッヒへの慕情には性的なものは含まれて居ない。
唯、彼の傍にいたい、出来れば一番近くに居たい。
自分が彼の傍に在る事が、彼にとって有益であって欲しい。
そして彼に自分を認めてもらいたい。
いわゆる「エロス」ではなく「フィリア」や「アガペー」に分類されるものであろう。
しかし時折そこにあるべきではない「独占欲」が菊の心を曇らせる。
でも、彼の心を独占することなど出来はしないと言う事は十分に分かっていた。
「自分さえこの気持ちを抑えていれば、それで和が保てるのだ」
彼の笑顔を見続けることが出来るなら、耐えることが出来る。そう思っていた。
「兄ちゃんはまだルートヴィッヒさんに告白してないの?」
弟の台詞に苛立ちが沸く。
…どうしよう。
「兄ちゃんがしないなら、俺、告白してもいいよね?」
今まで自分を殺して保ち続けていた「和」が壊される。

菊が、ルートヴィッヒに弟が近づくことを嫌がっているのには訳があった。
勿論彼が菊には持ち得ないものを持っているからというコンプレックスも有る。
だがそれ以外に、現在弟にはアーサー・カークランドとの内通というスパイ疑惑がかかっているのだ。

信じたくは無いが多分事実だろう。
元々彼は中立を保つ予定だったのだが、菊と長い付き合いであることなどから連合国軍から中立であることを信じてもらえず、やむなく枢軸側に付いたという経緯がある。
どうせアーサーに散々利用された挙句、難癖をつけられて攻め入られるのがオチだと分かっているが、家族だから切り捨てるわけにも行かない。
それに弟は大東亜共栄圏の中で、菊以外で唯一植民地化されていない国だから、利用価値も大きく、今手放すわけに行かない駒だ。
暫く監視し、それとなく止めさせるつもりだった。
だがもう時間が無い。
スパイを他の枢軸国に近づけるわけには行かない。
…どうすればいい?
菊の思考は袋小路に入ってしまった。


ある日、ルートヴィッヒは上司から意外な話を聞かされた。
「日本は我らアーリア人と起源を同じとする『東方アーリア人種』である」というのだ。
チベットの地底王国アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であり、日本人もまたそこをルーツとすることらしい。
「なかなか面白い話だな」
兄のギルベルトも興味津々のようだ。
「前からお前と菊はなんとなく似てると思ってたんだ」
少し心外だという表情のルートヴィッヒにケセセと笑ってみせる。
「お前らってさぁ、手先は器用なのにそれ以外のことはからっきし不器用なんだよなぁ
もうちょっとお兄様であるこの俺様を見習って器用に大胆になってもいいモンなのにな」
そう言ってルートヴィッヒの肩をポンと叩いてギルベルトは部屋を出た。
「酒は程々にしておけよ、兄さん!」
ドアの向こうに声をかけたが返事は返ってこなかった。

「…東方アーリア人種、…か…」
ありえない話ではないな、とルートヴィッヒは納得した。
ルートヴィッヒは菊と同盟を組む前は中国の王に協力していた。
しかし中国人は結束力が弱く、いくら支援、協力をしても日本には勝てなかった。
他のアジアの国も似たようなものだ。
それ故小国は欧米の植民地となり、大国である中国は領地を蝕まれていった。
しかし日本だけは違った。
ヨーロッパから遠く離れた地であるにも関わらず、アジアで唯一封建制度により地方を治め、キリスト教における教皇と同じ宗教的支配者「天皇」を持つこの国は理想的な君主政治を行い、素晴らしい統率力を持っていた。
忠実で勤勉、手先が器用な彼らを「異邦人」と呼ぶにはあまりに近すぎる気がしていた。
「……同族、か…」
ルートヴィッヒも椅子から立ち上がり、部屋を出た。


それから暫くして、菊はUボートの製造現場を見学するためドイツに行った。
今日はギルベルトは陸軍を率いてロシアへ、ローデリヒはハンガリーの石油採掘施設の管理に出払っていた。
「Uボートの製造過程は参考になったか?」
カフェー・ツァイトはルートヴィッヒと二人きりだったので菊は少し緊張した。
「はい、あの溶接技術は是非我が国でも取り入れたいと思います」
今日のお菓子はケーゼクーヘン(チーズケーキ)。
一口食べて「美味しい」というとルートヴィッヒは照れ笑いしながら「それは俺が作ったんだ」と言った。
意外なものを見る目でルートヴィッヒを見つめる菊に「嫌なら食べるな」と冗談めかした顔で怒って見せる。
そんな些細なやり取りに菊の心はとても和んだ。
ずっとこうしていられればいいのに、このまま時間が止まってしまえばいいのにと、叶わぬ思いを願ってみた。
「ああ、そういえば、お前の弟からこの前電話があったぞ」
「…っ!」
今一番聞きたくない話がルートヴィッヒの声で聞こえてくる。
「今度ウチに遊びに来たいとか言ってたが、…良かったらお前が次に来る時に連れて来ればいい」
「そうですね、じゃあ、そう伝えておきます」
…冗談じゃない、と内心思いながらも、菊はにっこり笑ってそう答えた。

「…………あの…、ルートヴィッヒさん」
カフェー・ツァイトの食器の片づけを終えたルートヴィッヒに菊は意を決して言った。
「ん?」
いつもの反応。機嫌の良し悪しや、こちらへの好意の度合いなどは全く測れない。
「…あの…、先日の書斎の奥の部屋を見せていただきたいのですが…、よろしいでしょうか?」
「…は?」
ルートヴィッヒの眉間に軽く皺が寄る。
「……」
これは少し唐突すぎたかな、と、菊は少し後悔したが、後には引けない。
十秒ほど間を置いて、「…まあ、いいか」と許可の返事が出た。
ルートヴィッヒの後ろについて書斎に入る。
壁にかかったタペストリーをめくったところにレバーがあった。
それを引くと書斎の本棚の一つが「ガコン!」と音を立てて前にスライドする。
その本棚を横に引けば秘密の部屋の入り口になる。
その先は先日と同じ光景。
三面の壁を埋め尽くすように飾られたエロティックかつ猟奇的な絵画。
壁一面分と、部屋に林立する書架には好色本がぎっしりと詰まっている。
ドイツ国内のものばかりだと思っていたら、よく見ると元オーストリア皇女でフランス王妃マリーアントワネットのヌード、ロシアのエカテリーナ二世とポチョムキン将軍の情交を描いたポルノグラフィーや、生まれたときからの宿敵であるフランスの貴族、マルキ・ド・サドの小説なども有る。
「…すごいですね」
その量に圧倒される。
「日本にはこういうものはないのか?」
少し得意げに聞かれ、菊も負けじと答える。
「顕著なのは江戸時代のものですね、好色本と呼ばれる小説本などもさることながら、「春画」と言う版画でのポルノグラフィーが大流行しました。
公認の出版物は色数などが規制されていましたが、存在自体ご法度な春画は裏で作られていたので規制など全く関係なく、美しければ美しいほど高値で売れたので、かなり高い技術が使われていました。」
「それは素晴らしいな、今度見せてくれないか?」
「はい、喜んで」
正直、ルートヴィッヒとこういう話題で盛り上がるということは今まで考えたことはなかった。
でも彼が喜んでくれるなら悪くは無い、と菊はとなんともいえない笑いを浮かべた。
ぱらぱらと好色本のページをめくり、内容を確かめる。
結構えぐい内容のものも多い。
「…あの…」
一声をあげるのは少し躊躇があった。
しかし、ここまで来てもう後戻りは出来ないのだ、と、菊は侭よと声に出す。
「ルートヴィッヒさんは…こういうの、お好きなんですよね?」
そう言って指した本は男色の類いの本だった。
「…、まあ、そういうのにも興味があるというか…、うん。そうだな、好きかと聞かれれば好きだな」
ルートヴィッヒは先日の菊の話を思い出し、彼がエロスや同性愛について偏見がないことを再度思い出してから正直に答えた。
その答えを聞いて、菊は小さく安堵の溜め息を付く。
「ルートヴィッヒさん」
彼の服の袖を軽く掴み、上目遣いで顔を見上げた。
「二人だけで…、誰にも…、フェリシアーノ君やギルベルトさんにも内緒で…秘密の同盟を結びませんか?」
―――賽は投げられた。
もう後に引くことは出来ない。


「…え?」
菊が言った言葉は確かに聞こえた。でも頭がそれを理解できなかった。
「私も、こう云う事に興味があるんですよ」
羞恥やためらいなど、全てを吹っ切ったような笑みを浮かべ、菊が答える。
「だから、二人でやってみませんか?…もちろん誰にも内緒で」
「……」
ルートヴィッヒは天井を仰ぎ、眉間に皺を寄せて溜め息を付いた。
「……で?何の罰ゲームだ?」
「はい?」
「兄貴か?ロヴィーノか?何を賭けたんだ?」
…ハナから信じてもらえていないようだ。
「罰ゲームでも賭けでも冗談でもありません。私は真剣にお話しているんですよ?」
「話が突飛過ぎるだろう!」
分かっている。菊は突然突拍子もない行動に出ることがあるのだ。本人は重々考えた結果の選択なのだろうが、結果しか知らない周りから見れば「何故そんなことをするのか!? 」と思うことも少なくない。
「貴方が興味の有る事に私も興味がある。興味があるもの同士が確認の上行為に及ぶということは極めて合理的な考えだと思いますが…?」
ルートヴィッヒが声を荒げる事が、逆に菊には理解できなかった。
「……」
その合理性が極端すぎるということが分からないのか…。
普段は情緒的であいまいな返答も多い分、突然合理性一辺倒な話をされると、こちらの勘が狂ってしまう。
取り合えず落ち着こうと深呼吸をする。
「…結果から云えば、『無理』だ」
「何故ですか!? 私がアーリア人ではないからですか!? 黄色人種だからですか!? 」
尋常ではない勢いでルートヴィッヒに詰め寄る。
「そんなことは関係ない。お前の好きな合理性に沿って考えれば、その身体では無理だという事だ」
そう言ってルートヴィッヒは菊の右腕を強く掴んだ。
「…細い腕だ。お前が幾つかは知らんが、その未成熟な身体では到底耐え切れん」
「そんなことありません!わが国の江戸時代の陰間茶屋で働いていた男娼は、皆十を過ぎたばかりの少年ばかりでした!彼らに出来て私に出来ない訳は有りません!」
「……」
今の菊には言葉でなにを言っても無理だということは分かっていた。
ルートヴィッヒは先日菊が確認した壁の本棚の横にある葡萄の飾り彫りのスイッチを押した。
本棚の下に小さな車輪が出る。
本棚を前にスライドさせ横に引くと、壁の向こうに続く階段があった。
「来い」
ルートヴィッヒが階段を降りる。菊もそれに続いた。
「お前が暴いてくれたからな、また場所を変えなければならん」
靴音が響く。空気が冷たい。誰にも見せないルートヴィッヒの地下室。
これは彼の心そのものだ。と菊は思った。
それを見せてくれるというのだから彼は自分に対して心を閉ざしていたり、自分の事を嫌いだということは先ずありえないと少し楽観していた。
部屋のドアを開け、入り口の燭台に灯を点す。
ゆらゆらと暖色の光が揺れ、部屋の中を照らした。
真っ暗な部屋の中は蝋燭一本の光では到底伺うことは出来ない。
ルートヴィッヒは慣れた様子で、薄暗くて何も見えない室内に入り、次々と燭台に灯を点けていく。
「電気の照明も便利だが、炎の明かりは別の意味でいいな…」
にわかにルートヴィッヒが呟いた。
「この明かりが小さく揺れる影を作る…。その時々に表情を変える影は人の心に瑣末な恐怖を与える…。そう思わんか?」
彼の手元の燭台の、下から照らす小さな揺れる明かりを見つめ、唇の端に笑みを浮かべるルートヴィッヒを見て、菊は確かにそうだと納得した。
「洋の東西を超えて存在する、この世のあまたの悪魔、妖しの類は、闇とそれを照らす光と影から出来ているのだろうな」
「そして、それを作り出すのは人間の心です。闇には何もない。何もないところに人の心の弱さが妖しを作るのです」
ルートヴィッヒの手元の明かりを見つめながら菊が言う。
「あぁ…、その通りだ」
ルートヴィッヒが思っていることと同じ答えが出せたことが嬉しかった。
部屋が少しずつ明るくなっていく。
暗くぼやけていた部屋の中が少しずつその輪郭を現した。
部屋自体はそんなに広くはない。日本間に換算すれば十畳を少し超えるくらいか。
しかし天井は高かった。
三面の壁と天井は木で出来た凹凸のあるモザイクになっている。
奥の一面は打ちっぱなしのコンクリート。
コンクリートにはXの字に枷の付いた板が打ち込まれていて、その周りから何本もの鎖が生えている。
部屋の至る所に鉄骨が組まれ、天井には滑車があり、そこから鉤付きの鎖が垂れている。
その他には何種類もの鞭のかかったフック、奇妙な形の椅子、寝台、人がすっぽり入るような巨大な桶、手枷のついたハシゴ。
鉄製の女性像はかの有名な鉄の処女「アイアンメイデン」か
目の粗い巨大なのこぎりはわが国にもあった「のこぎり引きの刑」に使われたものと同じものだろう。
それにいろいろな形の枷。
やたら棘の多いものがあるのは視覚的な恐怖を与えるためもあったのだろう。
中世の頃からあるような古びた大きな拷問器具の他にも、見た目がまだ新しい器具もたくさんあった。
それらは芸術性にも優れており、なかなかユニークですらある。
一組のローテーブルとサイドボードとソファだけが日常で見かけるもので、それ以外は普通に生活していればまず見ることはないものばかりだった。
「魔女狩りを知っているか?」
それらの器具を見つめながらルートヴィッヒが問いかける。
「え…?あ、はい。中世ヨーロッパで行われた宗教的異端者を拷問にかけたというアレですよね」
菊は即座に答えた。
「魔女狩りはあったのに、何故『悪魔狩り』はなかったか…分かるか?」
そう問われて菊は言葉に詰まる。
そういえば何故だろう。
サバトや黒ミサの参加者が女性に限定されていたと言う話は聞いたことがない。
またそういった集まりには乱交が付き物だったから男性がいないわけはない。
因みに菊の国では女性限定で拷問を行うという風習がない、あるといえば色町での折檻くらいなものだ。
「言ってしまえば男尊女卑もあったのだろうが…、要は神の名を使って合法的に女をいたぶりたかったのさ」
蝋燭の灯のせいか、そう語るルートヴィヒの唇の端に浮かぶ笑みが歪んで見え、菊の背筋ににわかに冷たいものが走った。
「女をいたぶりたいと言うのは、…要は性的な虐待ということだな。
一旦魔女の疑いをかけられた女は、その真偽に関わらず死ぬまでいたぶられた…。
勿論、死ななければ一生まともに生きていけない体になるわけだから、ある意味死ねる方がましだっただろうが、な。」
壁にかかった手枷の付いたハシゴに手を掛ける。
「これはオーストリアの拷問器具だ。
罪人の腕を背中に回してこの枷で固定し、身体をハシゴからゆっくりと滑り落とす。
肩を脱臼するまで止める事はないが、当時の医術では脱臼は一生治らないとされていた。
これで白状しない場合、脇の下を火で炙られる。
オーストリアでは束ねた蝋燭でのみと限定していたが、それ以外のドイツ領ではもうちょっと過激で、脇の下に油やタールを塗ってから炙ったそうだ」
目の前に存在するものと、その説明になかなか結びつきを見出せないような表情の菊を見てルートヴィッヒは自嘲気味に笑った。
「俺の趣味嗜好が分かったか?お前が付き合うのは到底無理だろうし、俺も大事な同盟国であるお前を不自由な体にする訳にはいかんからな」
ここまで言えば諦めるだろうとルートヴィッヒは高を括ったが、そうは行かなかった。
菊は唖然とした顔から一転、眉に力を入れ、ルートヴィッヒを見上げた。
「大丈夫ですよ、試してみましょう」
ルートヴィッヒは呆れ返ってしまった。
「…お前なぁ…」
「我が国にも拷問の歴史はあります。ここを見て驚いたのは器具の大きさやその芸術性です。
人を苦しめる道具にこれだけの装飾を施すと言うのは相当思い入れがなければ出来ないことでしょう。
貴方のその文化、受け入れてみたいと思います。
これでも日露戦争やシベリア出兵でロシア軍の捕虜となって拷問を受けたこともあります。
少々の責めでは壊れたりはしません。
日本人は見た目よりずっと丈夫なんです」
ルートヴィッヒは小さくうなだれ、ため息をついた。
「試してみてください、もし耐えられなければ『参った』しますからご安心ください」
暫くの沈黙の後、ルートヴィッヒが折れた。
「…あまり耐えるなよ、俺もいまいち加減が分からんからな」
一度言い出したら不可能だと分かっていても頑として曲げない。…菊の悪い癖だ。
ルートヴィッヒもそれを重々理解していたので、単に後に引けなくなって強がっているのだと思っていた。
可哀想だが、実際に多少痛い目にあえば諦めるだろう。
いくら日本にも拷問の歴史があるといっても、島国に孤立した菜食主義の温和な人種と、大陸の中で国と民族が争い続けた肉食の人種ではその残酷さ、残忍さにはかなりの差がある。

ルートヴィッヒは菊をコンクリート壁の前に引き寄せた。
ぐいっと襟を掴み、詰襟のフックを外す。
「……?」
軍服のボタンを上から一つずつ外していく。中のワイシャツのボタンもだ。
「な…、何を…?」
不安そうな顔でルートヴィッヒの顔と、動き続ける手を交互に見つめる。
ズボンのベルトを外し、引きおろされた。
「何をって…、何が?」
しらばっくれたルートヴィヒの顔が少し癪に障る。
引きおろされたズボンのその下はサラシの腹巻と褌。あまり好きな人に見せたい姿ではない。
「鞭打ちは裸と相場が決まっているだろう」
「……!」
菊の顔がにわかに紅潮する。
「…分かりました」
そう言って服を脱ぎ、腹巻と褌を外した。
ルートヴィッヒは菊の頭からつま先まで視線を滑らせた。
初めて会った頃よりは少し背も伸び、肉付きも良くなった気がする。
しかし筋肉を保護する脂肪は相変わらず薄い。
この身体でよくイヴァンの拷問に耐えたものだと感心してしまう。

壁に打ち付けてある人の背丈ほどのXの字の板を背に立たせ、板の四対に取り付けてある枷で手足を拘束する。
背の低い菊には少しきつかったが、勿論そんなことは顔に出さない。
目を閉じ、一つ深呼吸をする。大丈夫、と自分自身に心の声で言い聞かせる。
「……」
ルートヴィッヒは壁に並ぶフックから一本の鞭を選んだ。
これは蠍鞭。別名いばら鞭、ローズウィップとも言う。
鞭の中に金属片が埋め込まれたもので殺傷力が高く、どちらかと言うと拷問用ではなく「武器」の部類といていい。

   バシッ!!

不意打ちで菊のこめかみのすぐ横を狙って打った。
これは威嚇だ。わざと耳元で大きな音を立て恐怖心をあおる。
菊の目が一瞬大きく見開き、顔の横の壁に視線を向けた。
コンクリートが白くかすかに削れている様を見て菊の表情が固まる。
その表情が面白くてルートヴィッヒはくくっと小さく笑った。
今度は長さ一メートル二十センチ程の一本鞭を取った。
芯を包むように4枚の細長く平たい牛革を編んで作られた鞭は丈夫でしなやかで重量があり、狙い通りの場所を打ってくれるなかなかの優れものだ。
「次は当てるぞ」
声が裏返りそうになるのをこらえながらそう言ったルートヴィッヒの目は笑っていた。
「…――!! 」
菊は強く目を閉じ身を強張らせた。
「………っ」
しかし鞭が振り下ろされる気配はない。
「………?」
何故?とゆっくり目を開け、ルートヴィッヒを見ると突然鞭が振り下ろされた。
「ぅわっ!! 」
左脇腹に焼け付くような痛みが走る。間髪いれずに風を切る音が聞こえ、みぞおちと膝に三発振り下ろされた。
「……―――くぅぅっ!! 」
上半身が前かがみになり、強く握り締めた手を封じた手枷がガチャガチャと音を立てる。
「さっさと『参った』するがいい。長くやると危険だぞ?」
しかし実のところはその言葉とは裏腹に、ルートヴィッヒは菊が降参しないことを心の底で望んでいた。
「お前は大事な同盟国だ、手加減してやっているうちにさっさと降参するんだな。」
そう言われて菊は上目遣いでルートヴィッヒの方を睨んだ。
「何のこれしき…我が国の箒尻での笞打に比べれば屁のようなもんですよ」
唇の端に引きつった笑みを浮かべる。
箒尻とは竹竿を二つに割ったものを麻糸で巻き包み、更に糸こよりを巻き付けることで竿の表面に凹凸を付けたもので、古くから日本の拷問に使われる道具だ。
鞭と違って硬い棒なので狙いを外すことがなく、更にこよりの凹凸によって皮膚が裂ける。
「そうか、じゃあ遠慮は要らんな」
ヒュオン!と鞭を振り上げ風を切る。
「うがっ…!」
「ひぐっ……!! 」
「あぁっ…!! 」
鞭を振り下ろすたびに強く結んだ薄い唇から漏れる呻き声に、ルートヴィッヒの嗜虐心が高まっていく。
彼は大事な友人だ、それは分かっている。
その彼を自らの手で傷が残るほどの深手を負わせることはお互いにとって好ましくないことも分かっている。
分かってはいるのだ。。
しかし先ほどからのやり取りの中で、今まで宗教や年長者や上司からの教えにより彼の心の奥底に隔てられていた背徳の心が、目の前の友人を引き金に覚醒してしまったのだ。
彼の心の中では攻撃的な背徳心とそれを押さえ込もうとする道徳心が、互いにせめぎ合い大きなストレスを生み出していた。
そしてそのストレスが彼の心を暴走させるという悪い結果に突き進んでしまったのだ。
今の彼はこの強情で聞き分けのない異邦人を、壊れる寸前までいたぶり尽したいと言う破壊的欲望に支配されつつあった。

「…はぁ…、はぁ……」
もう何度右手を振り下ろしただろう。
息は荒れ、額が汗ばんでいた。
だが体温の上昇は身体を動かしたせいだけではない。
この『大切な友人』を傷つけ苦しめる行為に、心臓が歓喜の声を上げ体中に新しい血を廻らせているからだ。
「…もう…お仕舞いですか?」
少し眉を寄せ、ニッコリと笑う菊の身体には既におびただしい数の蒼痣と蚯蚓腫れが浮き出ていた。
「…そう思うか?」
唇の端を吊り上げただけの笑みが「そんな筈ないだろう」と言っていた。
手に持っていた鞭をフックに戻し、ルートヴィッヒが近づいてきた。
「…綺麗だ」
象牙の肌に浮き出た蒼と紅の模様に思わず見惚れる。
「俺が付けた傷だ…、そう、俺が…」
そっと肩にある腫れに触れてみる。
「ぅっ…」
菊の体がビクンっと小さく跳ねる。
「ホンダ…」
下顎を掴み、自分の方を向かせる。
「…何が目的だ?」
鼻がぶつかりそうな至近距離で見つめられ、菊は目を逸らした。
「何のことです?」
白々しく答える。
「今回の事はあまりにも突然すぎたと思わんか?
…確かに俺は人には言いにくい性癖を持っている。
しかし俺にはお前が同類には見えん。これは勘だが、お前からは俺と同じ『臭い』がしない」
「そんな事ありません!」
間髪いれずに菊が反論する
「前にも言ったように、我が国の男色の歴史はゆうに千年を超えます。
…明治になってからはキリスト教の影響もあり、今はあまり公言できる趣向ではありませんが。
でも『興味がある』と言うことはおかしいですか?」
「……ふんっ」
下顎を掴んでいた手を離す。
言っている事がおかしい訳ではない。しかし菊が何かを隠している気がしてルートヴィッヒは釈然としなかった。
「本当のことを話すまで責める、と言うのも良いかも知れんな」
近くにあった燭台を手に取り、菊の目の前にその炎を近づける。
「手始めに一本からだ、油を塗るのは勘弁してやる」
そう言って燭台を菊の右脇の下に持っていく。
「――あつっ…!! 」
揺れる炎が脇の下を炙る。
菊は身を捩って耐えた。
たかが蝋燭一本だが、その炎の温度は八百度を超える。
熱は空気と一緒に上昇するから、肌から少々離していてもかなりの温度で炙られることになる。
左脇も同じように炙る。蚯蚓腫れに炎が近づき菊は唇を噛み締めた。
「くぅっ…!! あつっ…!あぁっ…!! 」
切羽詰った声を出しながら身を捩る様がおかしくてルートヴィッヒの口から笑みが漏れる。
「どうした?『参った』か?」
「絶対に参りません!! …絶対…、言いません…!うぅっ…!こ…降参なんて…しません…っ!! 」
「ふうん、そうか」
ニヤニヤ笑いながら床に足を付き、燭台を下の方に移して開いた足の間に持って行く。
「…う…っ…く、…あぁ…っ」
燭台を左右にゆっくり揺らし、股の内側を炙る。
次第に皮膚が赤く色づいてくる。
火傷の第一段階だ。
「ぐっ…!あ…、あぁっ…!! 」
腰を引いたり捻ったりして避けようとするが上手くはいかない。
「どうした?ダンスでも踊りたいのか?」
笑えないジョークを飛ばすルートヴィッヒを睨み付ける菊の額に脂汗が滲む。
フフンっと鼻で笑いながら、ルートヴィッヒは左の手で菊のペニスを掴んだ。
「…――っ!! 」
突然の事に驚き、菊はびくんっと身体を震わせた。
先端を抓むようにゆっくりと持ち上げ、その裏筋に蝋燭の炎を近づける。
「――なっ……!やっ…、止めて下さい!」
恐怖で血の気が引く。
「お前のその切羽詰った顔が好きだ、見ていてゾクゾクする」
ガチャガチャと手枷を揺らす。脚をすぼめ腰を引こうとする。
無駄な抵抗なのは本人も重々分かっているが本能的に体が熱から逃れようとするのだ。
「熱い…!あついですっ…!止めて下さい…!」
筋を炙るように燭台をゆっくり上下に動かす。
少しずつ炎をペニスに近づけていく。
「止めて…っ、止めてください!あついっ…あああっ…!! 」
「『止めてください』じゃないだろ?『参りました』だろ?」
下から自分の顔を見上げるルートヴィッヒの視線に羞恥心を掻き立てられ、屈辱的な気分になる。
「……嫌です!それだけは…言いません!! …絶対に…っくうぅっ…!」
「そうか、…ならこれで最後だ、よく頑張ったな」
その言葉に一瞬気が緩んだ。
それを見計らって、ルートヴィッヒは菊のペニスの先の包皮を剥き、一瞬だけ直に炎を滑らせた。
「ひぁああぁっ!! 」
「…Das Ende!」
そう言って燭台を少し傾け、亀頭の先に融けた蝋を一滴落とす。
「がっ――――……!! 」
不意打ちに近い状態で一番敏感な部分を攻められ、声にならない悲鳴を上げた後、菊のからだが大きく弓なりに沿り、悶えた。



「…はぁ…、…はぁ…」
責めを受け、体力を消耗しきった菊は手枷に体重の殆どを任せてうな垂れていた。
ルートヴィッヒはソファに腰掛けサイドボードの中を物色し、探し出した医療用のゴム手袋をはめ、菊の前に屈み込んだ。
「……?」
虚ろな目で見つめる菊。不安はあるが、今は身体を動かしたくなかった。
「よく耐えたな…、ご褒美だ」
ルートヴィッヒはゴム手袋をはめた右手の指にたっぷりとオイルをたらして菊の股に手を伸ばす。
「…ぁ…っ」
ピクッと菊の身体が反応する。
蟻の門渡りから後孔をオイルで滑った手で何度も撫でられ、背筋に蟲が這い上がるような快感とも不快感ともつかない感覚に身震いした。
ちらりとルートヴィッヒの方を見ると、不敵な笑みを浮かべる彼と目が合い、恥ずかしさで目を逸らした。
中指が後孔の周りを弧を描くように撫でる。
「んっ…ぁ…」
股を濡らすオイルの感触が気持ち悪い。軽く火傷を負った所がヒリヒリと痛む。しかし、止めて欲しいとは思わなかった。
全てルートヴィッヒに任せ、彼の弄る手から快感だけを選って受け入れる。
孔の周囲を撫でていた指が、今度はゆっくりと孔に潜り込んでいく。
「はっ…ぅうっ…!」
思わず下半身に力を込めてしまった。
「力むな、もっと…リラックスしろ」
オイルのせいで狭い入り口も何とか彼の指を飲み込んだ。
「…なかなかキツイな。だがまあ仕方がない、何とかなるだろう」
そう言いながら指を付け根まで埋め込み、中を弄るように動かす。
「う…ぁ…、あぁっ…」
今度はゆっくりと抜き差しを繰り返えされ、下腹のほうから力が抜け足が震える。心臓の動きが徐々に早まっていく。責められている間萎えきっていた菊自身がむくむくと頭をもたげた。
「…るーと…ヴィッヒさ…」
更に左手で半勃ちになった竿を撫で上げられ、その先を大きな手で包み込まれる。
「んっ…!」
先ほど焼かれ、蝋を垂らされたところがじんじんと痛み出した。
包み込む手に少し力が入り、握られた状態で上下に愛撫される。
カリが刺激され、半勃ちだったものが完全に勃起した。
「あ…、や…っ…!んんっ」
背筋にゾクゾクと悪寒が走り、菊は反射的に首を左右に振った
そこでにわかにルートヴィッヒは愛撫する手を引く。
「…え…?」
快感の酔いが一瞬醒める。
何かしてはいけないことをしてしまったのだろうかと云う不安で、心臓と胃が締め付けられるように痛む。
しかしそれは唯の菊の勘繰りだった。
足枷が外され、下半身に自由が与えられた。
しかしこれは逆に言えば、彼の手によって更に自由に弄ばれるという事でもあった。
既に下半身を露わにし、衛生サックを着けたルートヴィッヒに両足を持ち上げられ、腰を抱えあげられる。
「痛…っ!」
腕が今までと違う方向に引っ張られ、手枷が食い込んだ。
何とか痛みの少ない方に腕を曲げるが、体重の半分以上を手枷で支えている状態なので、やはり痛みは続いた。
「挿れるぞ…」
そう言ったルートヴィッヒの息は既に荒く、何時もより目つきがギラギラとしているように見える。
怖い…。
今から何をされるのかは分かっている、それは自分が望んだ事なのだから。
先ほどまでの拷問ですっかり興奮し、大きくそり立ったルートヴィッヒのペニスが菊の後孔に押し当てられた。
「…ぅ、…くうっ…!! 」
押し広げられる痛みにきつく目を閉じ、唇を噛んだ。
「力…入れるんじゃない」
少し進めては戻し、また少し奥を目指す。硬く閉ざされたそこはなかなかルートヴィッヒを受け入れなかった。
「…く…あ・ぁっ…!」
力を抜こうとするが、意識すればするほどどうやればいいか分からなくなる。
焦ったルートヴィッヒは菊の腰を掴んでいた手に力を入れ無理やりねじ込んだ。
「――…あああーっっ!! 」
部屋いっぱいに菊の叫び声が広がる。
この部屋は音が響かないように壁の三面と天井を木製のモザイクで作られているので、地下室でありながら菊の叫び声は反響せず綺麗に広がって消えた。



―――これが『セックス』か。
奥まで挿入し、ルートヴィッヒはそのまま暫く動かずに中の感触を確かめてみた。
しかし菊にとってはそれは非常に有難いことであった。
今この状態ですら、彼は腰が裂けそうな程の激痛と戦っていた。
――温かい…。
ゴム越しに菊の粘膜の温かさと、ズキズキという震えが伝わってくる。
正直、思っていたほどの感動はなかった。
でも何故だろう、この感覚は癖になりそうだと、まだ終わってもいないのにそう思い始めていた。
「…動くぞ」
そう言ってゆっくりと腰を動かす。
「く…ぅ…っ、あ・あぁ…!…ぃたっ…!」
手枷がガチャガチャと音を立てる。
突き上げられる力を外に逃がそうとするが、何かを掴むことも出来ないので、爪が掌に食い込むほどぎゅっと拳を握った。
腰の動きが段々と早くなる。
「痛…ぁっ…!うぅっ…、あ、…あぁっ!
突き上げられるたび背中が磔台に押し付けられ擦れる。後頭部がコンクリート壁に何度も小さくぶつかる。手枷が軋み、手首に食い込んで擦れ、血が滲んだ。
「ふ…っ、…ぅうっ…、…はぁ…、はぁ・・・っ!! 」
目の前で菊が苦しそうにうめき声を上げる様を見て、ルートヴィッヒの興奮は加速した。
今抱いているその身体には自分がつけたおびただしい数の傷がある。
傷付けるたび上がる叫び声、呻き声、そして蝋燭の炎で揺れる苦悶の表情。
目の前の肉体を突き上げながら先ほどの加虐行為を反芻した。その全てが、彼の性欲と破壊願望を刺激する。
「ホンダ…、…ホンダ…!」
目の前で喘ぐ、同盟国であり大切な友人の名を呟く。
激しい射精感が迫ってきた。
「…お前を…、壊していいか…?」
苦悶の表情の中、菊はうっすらと目を開け、ルートヴィッヒの方を見て微かに笑い、頷いた。…ように見えた。
それは単にルートヴィッヒの思い込みだったのかもしれない。
しかしその表情を確認した途端、ルートヴィッヒの中で何かが弾け飛んでしまった。
腰を掴んでいた両手を離し、代わりに菊の首を掴む。
「ぅぐっ……!! 」
射精と同時に菊の首を加減なしで絞めた。
「が…、ぁ…!」
菊の目が大きく見開いた後、にわかに身体が痙攣し、そのまま動かなくなった。


「………」
菊は一人、小さな道を歩いていた。
ここがどこなのかも分からない。どうしたらいいのかも分からない。
…帰りたい。
そう思うけれどどこに帰ればいいのかも分からない。
不意にどこからか人の声がする。
目の前に見慣れた影が見えた。
ぼさぼさ頭と似合わない眼鏡、何時もヘラヘラ笑っているその顔は何を考えているのかさっぱり読めない。
「…―――〜〜!」
何か話しかけてくるが、何を言っているのか全く分からなかった。
「来るな!」
菊はその影から逃れようと走り出した。
「貴方なんかに…、貴方なんかに彼は渡しません!! 」
拒絶の意を露わにしても、影は菊に付きまとってきた。
「たとえ男娼に身を堕とそうとも…、貴方には負けない…絶対に譲らない…!」
影は尚も何か話し続けている。
「スパイの癖に!裏切り者の癖に…!! 」
何か分からない声の形をした音の羅列の中、一つの言葉だけはっきりと聞こえた。
「――…兄チャン、大好キダヨ……」
視界が暗くなる。影は闇に紛れて見えなくなった。
「お前なんか…嫌いだ…!」
昔から菊は弟が羨ましかった。
南国の生まれで、食べることに困ることがないという事が何よりも羨ましかった。
食べ物が豊かなせいか彼は何時も笑っていた。それが羨ましかった。
孤島に閉じこもっていた菊にとって周りにたくさん兄弟がいることも羨ましかった。
どう足掻いても自分には持ち得ないものを持っている弟に、自分の好きな人まで取られるのは許せなかった。
「…大きら…い…」
耳鳴りがする。突然水の中の奥深くから水面に引き上げられるような苦しさを感じた。

「……――!! 」
声が聞こえる。…弟の声ではない、もっと低い声。
肩がゆすられているのも分かる。
菊はゆっくり目を開けた。
「…―――!! 」
目の前でルートヴィッヒが必死の形相で何か言っている。
「…はい?」
聞き返すがやはり何を言われているか分からない。
何度も聞き返すのは失礼だなと、変に冷静な気持ちで菊は「…大丈夫です」とだけ答えた。


「すまなかった、何せその…、初めてのことで手加減が出来なかったんだ」
菊はソファの背もたれを倒した簡易ベッドの上に横になっていた。
怪我をした手首に包帯を巻きながらルートヴィッヒが詫びる。
「…大丈夫ですよ、言ったでしょう?私は見た目より随分頑丈なんです」
心配かけまいとにっこりと笑って菊が答える。
「…お前も…、もしかして、…その、……初めて、だったのか?」
「…はい」
普段からは考えられないほど歯切れの悪い質問にも菊は笑って答える。
「…お前なぁ…」
ルートヴィッヒは小さくうな垂れ、ため息を付いた。
「散々『男色に興味がある』とか『我が国の男色の歴史はゆうに千年を超える』とか言ってたくせに初めてはないだろう…」
薬箱から湿布薬を出し、菊の火傷した脇腹に貼った。菊はその冷たさに肩をすくめ苦笑する。
「えぇっと…、国民は経験豊富でしたけどね。私自身は相手がいませんでしたから…」
「王や任勇洙とは…そういうことはなかったのか?」
今度は内股に貼る。今度は思わず小さく「ひゃぁ!」と声が漏れた。
「…王さんとはこの二千年間、民間の交流はあっても国交はありませんでしたし、一番仲の良かった勇洙は宗教が違いますから…。
何せ私は海に隔てられた島国ですから他の兄弟ともそこまで仲が良かったというわけではありませんでしたし…」
「……」
今度は軟膏の入った壜の蓋を開け、蚯蚓腫れに塗っていく。
「……今日のお前は何から何まで無茶苦茶だ」
眉を寄せ、ため息混じりに言ったが
「すみませんでした…」
殊勝な顔で謝る菊にルートヴィッヒはこれ以上きつく言うことは出来なかった。
「でも…私『参った』しませんでしたよね?今日試してもらって大丈夫でしたよね?」
結局そこか!と耐え切れずにツッコミを入れる。
「だから…、何があってこういう事態に発展したのかちゃんと教えてくれ。そうでなければ俺も納得出来んし、納得出来ないままでそんな関係は持てん。
正直な話、これ以上振り回されるのは勘弁してもらいたい。訳の分からない行動に出るのはフェリシアーノだけで充分だ。」
「――……。」
そこまで言い切られた事と、ルートヴィッヒの口からフェリシアーノの名前が出てきたことで、菊は黙り込んでしまった。
本当のことを言うのは怖い。
もし笑われたらどうしよう
もし嫌な顔をされたらどうしよう
もし………。
でも彼を困らせることも望んではいない。
「…………」
蚯蚓腫れに薬を塗るルートヴィッヒの手を制して、身体を起こす。
心臓が暴れだす。みぞおちに差込みが走る。考えがまとまらなくて、何からどういえばいいか分からなくて俯く。
「……私、…ルートヴィッヒさんが好きなんです」
一番重要なところから声に出してみた。ルートヴィッヒは微かに眉をよせた表情でこちらを見ている。
言うんじゃなかったかも、とも思ったがどの道言わない訳にも行かないだろうから仕方がないと吹っ切って話す。
「尊敬してます、憧れています…、だから出来るだけルートヴィッヒさんに近い場所に居たかったんです」
「……」
床の上に膝をついて座っていたルートヴィッヒが、簡易ベッドの菊の横に座りなおした。
「でも…、私は…、…私は白色人種でもアーリア人種でもないし…、知り合ってまだ間もないし…、距離的な意味でも、何時も傍に居るなんて事は出来ないし…、でもルートヴィッヒさんと同じものを好きであれば少しは近くに居られるかと思って…」
俯いたまま淡々と話す菊をルートヴィッヒは黙って見つめていた。
「先日の事で、ルートヴィッヒさんの…、その…、マイノリティな趣向を知って、自分が同じものを好きになれれば、その部分を独占できると思ったんです」
ため息が一つ聞こえる、やはり呆れられたかと菊も小さくため息を付いた。
「…で?お前は俺の『マイノリティな趣向』を好きになれたのか?」
「……分かりません。でも…、今日、改めて、貴方の傍に居るためなら耐えられると思いました…」
それを聞いて、ルートヴィッヒは菊の身体を抱き寄せた。
「…そうか…、ありがとう」
黒く真っ直ぐな前髪を手櫛で横に流し、菊の唇にそっと自分の唇を合わせる。
「………」
呆然とした表情でルートヴィッヒを見つめたまま菊は固まってしまった。
ルートヴィッヒは笑いながらもう一度菊を強く抱きしめる。
「俺も…、お前に傍に居て欲しい…、いいか?」
「………っ!」
ルートヴィッヒの背中にまわした腕にめいいっぱい力を込めて無言のまま頷く。
「本当にお前は…手先は器用なくせに、不器用なやつだなぁ…」
子供をあやすように優しく頭を撫でられ、今まで張り詰めていた神経が一気に緩んで、いつもの表情の少ない黒い瞳から涙がぽろぽろと流れ落ちた。
「もう一度、お前を抱きたい…、いいか?」
「……」
菊は無言だった。
「さっきは余裕がなくて…お前をいかせてやれなかったし。…こんどは優しくするから、いいか?」
「…はい」
ルートヴィッヒの胸に顔をうずめたまま答える。
先ほどの唇を合わせるだけのキスとうって変わった貪るような激しいキスを受けながら簡易ベッドに押し倒された。
「貴方の…性欲も欲情も…私が全て受け止めます…」
誓うようにルートヴィッヒの目を見てそう言う菊の唇が、もう一度彼の優しいキスで塞がれた。


「こらぁ!フェリシアーノ!! もっと早く走れー!! 」
庭先でルートヴィッヒが怒鳴りつけている。
…いつもの風景。
先に特訓メニューを終わらせた菊はローデリヒと一緒に昼食の準備をしていた。
「いつもいつもあんなに大声を張り上げて…、お下品ですねぇ」
エリザヴェータからプレゼントされたラベンダー色のエプロン姿で窓の外を覗くローデリヒ。
「ふふっ、そうですね…」
割烹着姿の菊も同じ窓から庭を覗く。
「よ!」
不意にギルベルトが後ろから声をかけて来た。
ちらっと窓の外を覗く菊の顔を見てニヤリと笑う。
「…なんか、変わったな、お前」
「何がですか?」
勘のいいギルベルトと話すのは、最近ちょっと苦手だ。
「以前はルーイとフェリちゃんが一緒に居るとなんかこえー顔してたのにな、さっきはそんな事なかったぜ。お前も大人になったな」
そう言ってケセセと笑う。
「そうでしたか…?申し訳ありませんが記憶にありません」
負けずにニッコリ笑ってみせる。
「ホンダ!そろそろお昼の準備が終わると二人に伝えてくださいな!」
ダイニングから呼ばれ、菊は窓の外に向かって二人を呼んだ。

この前、ルートヴィッヒが是非弟も連れてこいと言うので、連れてきて一緒にトレーニングをした。
しかし元々マイペースな弟はフェリシアーノと一緒に脱走してしまい、ルートヴィッヒから大目玉を食らって、それ以降来たいと言わなくなった。
ざまぁみろ、と内心菊はほくそえんでいた。
トレーニングの日に連れて来たのは菊の画策だ。

「菊ーぅ!ルーイが俺に意地悪言うんだよー」
へっぴり腰で駆け寄ってきたフェリシアーノが菊に抱きつく
「はいはい、意地悪なんかじゃありませんよ、大丈夫です。
フェリシアーノ君のためにちゃんとパスタも茹でておきましたよ、今日はバター醤油味にアレンジしてみました。」
「わーい、ありがとー、菊だーいすき!」
頬と頬をくっつけて喜びを表現するフェリシアーノに、菊は頬を染めてちょっと引きつった。
「こらー!フェリシアーノ!! 」
後ろからルートヴィッヒが追いかけてきた。
――これもいつもの風景。

もう彼を羨ましいと思わない、嫉まない。
こうやっていつまでも三人で一緒に在りたい。





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