Second Virgin
                           倭国 殉





心臓の音が耳元に聞こえる。
天蓋付きの広いベッドの上で組み敷かれ、本田 菊はぎゅっと目を瞑った。
「すまねぇ…、やっぱ駄目だ。」

サディク・アドナンはベッドから降り、バルコニーに出た。
「…すみません。」
菊は体を起こし、ベッドの上に胡坐をかいて俯いた。
先に「抱いてくれ」と言ったのは自分だった。
「軽蔑して下さい、馬鹿なやつだと思って。」
その瞳は虚ろで、何処をも見ていなかった。
「…本田さん、アンタが自棄になる気持ちは良くわかりやす、俺だってそうでしたから。」
サディクはポケットから取り出した煙草を咥え、火を付けた。
「軽蔑なんてしねぇ、俺ァあんたが好きだ、
 昔から、アンタは俺の憧れだった。
 アンタが頑張ってたから、俺も何とか頑張れたんでぃ。」
煙を吐き出す息が震えている。
「だからお願いだ、負けてもいい、ボロボロになってもいい。
 消えるなんて考えんな、絶対。」
その言霊は強く静かに菊の胸を貫いた。
「戦争が終わってまた逢えたら…、
そん時ぁアンタを抱きたい。…いいかぃ?」
菊はひざの上に置いた手をぎゅっと拳に握り、唇を噛んだ。
本当は、このまま腹を切って死んでしまいたかった。
でも、こんな自分を赦してくれる人がいる。
そう思うと嬉しかった。
「…はい。」
それだけでも素直に「生きたい」と思えた。


 自分の負けはもう誰の眼から見ても明らかだった。
共に戦った盟友は既に墜ち、残るは彼を長とする家族だけとなった。
更に敵は「戦後、国際連合に加盟を希望する国は、戦争終了までに連合国側に付く事」とまで言い出した。
今まで、中立国として密かに彼の味方をしていた国々も、その殆どが敵に回ってしまった。

 一九四五年 二月某日、サディクもとうとう連合国側に付くことになった。
訪ねてきた菊に、サディクは床に膝を付き何度も何度も詫びた。
そして、今までずっと己の内に募らせていた思いを洗いざらい告白した。
菊は全てを諦めた笑みを唇の端に浮かべ、言った。
「どうせ戦争が終われば、ルートヴィッヒさんのように私も連合国に分割統治されます。
 資源もない、国を作る男手もない。国民の食料すらない、そして絶望しかないこんな状況では、
もう国として体を維持していくことは出来ないでしょう。
かつての昔、大国に飲まれ消えていった泰西の国々のように、私も消え行くしかありません。
 …こんな私でも好きだと言って下さってありがとうございます。」
膝を付いたまま頭を上げないサディクの前にしゃがみ込み、その肩に腕を回した。
「…抱いてください。」
乾いた細い声で耳元に囁く。
どうせ負けて消えてしまうであろう、何も無いこの空っぽの自分を、それでも慕ってくれる人がいるならば、
せめてこの身をその人に捧げてもいいだろう。
「私を、貴方の好きにしてください…。」
サディクは困惑の表情を浮かべている。
菊は一瞬目を伏せ、再度サディクと目を合わせてにっこりと
笑った。

本当は怖かった。
負けるということが、自分が「消える」ということが。
怖くて怖くて、心が潰れそうだったから誰かに強く抱きしめて欲しかった。
しかし枢軸亜細亜の長である自分が、家族に弱音を吐く訳にはいかなかった。
誰でも良かったのかもしれない。
むしろ彼でないほうが良かったのかもしれない。
もしあの時彼に抱かれていたら、きっとそのまま心が折れて立ち上がれなかった。…そんな気がする。




二〇〇三年 三月一日

久しぶりにこの夢を見た。
終戦から戦後の頃よく見た夢だった。
生きていればまた会える、そして次にあったときは彼の言葉通り…
その思いが強く胸にあったからだろう。
 彼との再会は意外に早かった。
終戦からわずか五年後、まだ米国の支配下に置かれ、他の国との国交も無かった頃、
海の向こうの絶縁した幼馴染の国で起きた戦争に、サディクが駆けつけてきてくれたのだ。
 戦争が終わり、その帰りにサディクは菊の家に遊びに来た。
しかし、サディクは菊に対して「善き友」として振る舞い、あの時の約束は遂行されなかった。
「あの言葉はきっと自暴自棄になっていた自分を傷つけないための、彼の精一杯の優しさだったのだろう」
そう思うことで菊は納得した。
彼の言葉を額面通りに受け止め、それにすがる気持ちがあった自分を恥じた。
 それから今まで何度彼に助けられただろう、しかし自分が彼にしてあげることが出来たのは「経済援助」だけ。
それは何となく感謝の気持ちを金額で示すようで気分のいいものではなかった。

 今日の晩御飯は何にしようか、散々悩んだ挙句、豚汁と炊き込みご飯に決めた。
調味料と材料を炊飯器に入れ、スイッチを入れたところで電話の音が聞こえてきた。
「もしもし」を言う間も無く受話器の向こうからアルフレド・F・ジョーンズの能天気な声が聞こえてくる。
「ハロー!菊、今暇かい?暇だろ?暇だよね?決まり!
 今から遊びにおいでよ!絶対だぞ!じゃあ待ってるから!」
否応どころか返事をする暇も無く通話が切れた。
「………」
…何故このタイミングなんだ。
溜息をひとつ。
どうせまたホラービデオを借りたから一緒に見ようとか、
日本製のゲームを買ったけど攻略法が分からないとかそういう下らない事だろう。
そして夜遅くまで引き止めて、泊まって行けとか一緒に寝ようとか言うつもりだ。
行きたくはないが、行かないとうるさいので仕方なく菊は出かける用意を始めた。

 アルフレドの家に着いた頃にはすっかり夜だった。
玄関の呼び鈴を鳴らす、しかし誰も出てこない。
まぁいいか、勝手知ったる他人の家だ。
菊がドアを開けると、聞き覚えのある怒鳴り声が近くで聞こえた。
「え?」
何故今この声がここで?
「バーロぃ!いつまでもテメェの言い分が一番に通るなんて思ってんじゃぁねぇや!」
声の主のサディクは頭に血が昇っているせいか、菊の存在に気付いていなかった。
ドアを開けようとした手が空振りして菊に体当たりを食らわす。
「うわっち!あ、すまねぇ!」
と言ったところで菊と目が合い更に驚いた。
「えぇっ!ほ、本田?」
「ぁ…、こんばんは…」
菊が悪いわけではないが、なんとなく申し訳ない気がして、小さな声で挨拶をした。
「…〜!」
サディクはバツが悪そうな仕草で頭をかいた。
「ちょっと待ってくれよサディク、君は誤解しているんだ!」
奥のほうからアルフレドが現れた。
「誤解もロッカイもあるかってんだ!俺ぁもう話す事は無ぇからな!」
サディクがヘラクレス以外の人間に、こんなに感情的になっているのを見るのは久しぶりだ。
「本田!」
「はいぃっ!」
突然声をかけられ、飛び上がって驚いた。
「飲みに行くから付き合え」
「…え?」
返事をする前に強引にサディクに腕を引かれ、ジョーンズ家の玄関を出る。
「本田は借りていくからな!」
ドアが閉まる前にサディクはそれだけ言い残した。
流石のアルフレドも暫く開いた口が塞がらないまま唖然と玄関に立ち尽くしていた。

 「ちょっと、サディクさん…!」
無理やり車の助手席に押し込められた。
サディクは無言でエンジンをかける。
「飛ばすからちゃんとシートベルトは付けておけよ!」
しまった…!
菊の顔から血の気が引く。
サディクの運転は普段から非常に荒い。
更に今この頭に血が昇った状態だと、目的地に無事たどり着けるかすら定かではない。
今は静かに言うことをきいておいたほうが身の為だ。
菊は無言でシートベルトを装着し、ただ無事に目的地に着けることを神と仏に祈った。

 着いた先はサディクの家だった。
「…飲みに行くって言ってませんでした?」
これでは拉致だ。
「てやんでぃ、アメリカの不味い飯食いながら酒が飲めるかってんだ」
あぁそうか、菊は呆れ顔で小さな溜息をついた。サディクの「悪い病気」が出たようだ。
彼はとてもやきもち焼きなのだ。
大勢でわいわい楽しんでいる時はなんでもないのだが、
二人きりの時に、菊の友人が通りかかって話を始めたり、誰かを含む三人で会うときはかなり大人気ない発言が出たりもする。
更にその第三者が愛情表現豊かなフランシスや、スキンシップ大好きなフェリシアーノ、ヘラクレス、アルフレドだった場合、
一触即発の危険すらあり、菊はもうその場から逃げることしか考えられなくなる事もある。
勿論彼には菊以外にもフランシスやルートヴィッヒなどの親しい友人がいる。
そしてやはり彼らが他の誰かと仲良くしているのを見かけると、苦虫を噛みつぶしたような顔で怒っている。
このいい年をしたオッサンは、菊がアルフレドの家に居た事に嫉妬して、咄嗟に拉致したに違いない。

 「……。」
仕方がない、これが「民族性の違い」と言う奴だ。
農耕民族である日本人は長く一定の場所に定住し、集落を作る。
顔を合わせるのはいつも同じ人間だから、出来るだけ感情を露にすることによる軋轢を起こさないように、
思ったことをそのまま口に出すと言うことはしない。
自分の一挙一動、一言が、周りに不快感を与えれば、そこに居られなくなる事すらあるからだ。
居られなくなったものたちは食べ物を得る田畑を失い、当てもなく流れていくことになるが、
周りもそういう人間はなかなか信用してくれなくなる。
反対に、トルコ人は季節により各地を移動する遊牧民族がルーツだ。
いろんな場所を移動する彼らには一期一会な出会いも沢山ある。
その出会いを自分のものにするには「当たって砕けろ」にも近い自己アピールや、
やや強引とも取れるくらいの執着心がなければならないのだろう。

 ただ、菊にとって、サディクの「嫉妬心」は自分の何処に向いているのか少し気になる。

 「適当に何か作って来やすから、くつろいで待ってて下せぇや」
居間に通され、サディクはキッチンに行ってしまった。
相変わらず綺麗に掃除してある、子供のいる家とは思えない。
菊も昔兄との戦争後、大陸の弟妹を引き取り面倒を見たことがあるが大変だった。
ああ、そういえば彼の息子はどうしたのだろう。
時計を見るとまだ9時前だ。
「…ホンダ。」
ドアの影から細い声が聞こえる。噂をすれば何とやら、だ。
「やぁ、こんばんは、もう寝る時間ですか?」
声の主の、寝間着姿のまだ幼い少年の許に寄り、しゃがみこんでにっこりと微笑みかける。
元々子供好きな菊は、自分によくなついてくれるサディクの息子をとても可愛がっていた。
国連未承認国家という不憫な境遇が、わが子同然に育てた妹と重なるという所もあったからかもしれない。
「…うん…。
 …俺、ホンダと遊びたかった…。」
誰に似たのか相変わらず淡々とした口調だ。
「…あのね、ホンダ。
 …今夜は…、泊まっていく?」
菊は少し考えて
「…そうですね、この時間では多分泊まっていく事になるでしょうねぇ…」
と答えると、少年は俯いて恥ずかしそうに笑った。
「…じゃあね、明日、…朝ごはん…、一緒に食べよう…。」
「はい、そうしましょう、さぁ、おやすみなさい。」
菊は少年をそっと抱きしめて頬を合わせた。
「…うん、…おやすみ…」
少年は廊下に出て2度ほどふり返りながら自分の寝室に消えていった。
 ばいばい、と振っていた手を下ろし、溜息をつく。
…今夜のお泊りが決定してしまった。
取り敢えずアルフレドに電話を入れておく。
「キクー!なんでサディクと行っちゃうんだよー!」
もしもしを言う間も無く、携帯電話から彼の嘆き声が耳をつんざく。
「キミに電話した後、サディクが急に家に来たんだよ。
 すごい剣幕で怒っててさ、戦争のために俺んちに米軍が駐留するのはゆるせねぇ!って」
成る程、そのことだったのか。

 現在、時は二〇〇三年 三月一日、イラク戦争勃発間際である。
イラクに侵攻する為に、アメリカはトルコ国内に米軍の駐留と空軍基地使用を要請した。
トルコはアメリカの同盟国でNATOの加盟国でもあるから、当然イラク攻撃を支援してくれると思っていたのに
トルコはそれを拒否したのだ。

「ねぇ、菊、キミからもサディクを説得してくれよ。
 それが出来たら今日の事はチャラにするからさっ
 じゃあお願いだよ!」
…何故私の周りはこんなに強引な人ばかりなのか。と首をうなだれ溜息をつく。

 「…ジョーンズのボンクラですかぃ?」
シシュケバブとチーズのボレックを乗せたトレイを持って部屋に入ってきたサディクの仮面から
殺気がにじみ出ているのがありありと分かった。
「…サディクさん、そんなに感情的になっていたら、マスクに意味がありませんよ。」
「てやんでぃ!」
冷蔵庫とサイドボードから酒と水割りセットとビールを出してきた。
サディクがいつも飲む酒は「ラク」という名で、別名「ライオンのミルク」という。
ストレートだと無色透明な酒だが、水で割ると白く濁るのが見た目にも趣がある。

 「アルフレドさんから聞きましたよ、米軍の駐留を拒否したそうですね」
冷えたグラスに上手に注がれたエフェスビールに口をつける。
「羨ましいです、私にはそこまで出来ませんから」
「仕方ねぇや、アンタぁあいつには軍事力握られてますからねぇ」
「戦後の復興に必要なお金を軍事にまで回せなかったんですよ、…仕方がないといえばそれまでですが、自業自得ですね。」
自嘲気味に笑い、喉の渇きに任せてグラスのビールを半分ほど一気に飲み込んだ。
空きっ腹にアルコールが染み込んでいくのが分かる。
「経済復興は早くに果たせましたが…、所詮は成金国家ですよ、何でも金で解決するしか出来ないんですから」
「本田さん、アンタ、ちょっと胃に何か入れてから酒飲んだほうがいいですぜ?」
しかし、サディクの忠告中にグラスのビールを空けてしまった。
「ご忠告ありがとうございます、この美味しそうなお料理も頂きますね」
そう言ってにっこり笑う菊の頬は既にアルコールで朱に染まっていた。
チーズのボレック(パイ包み)をつまみながら、手酌でビールを注ぐ。
「ねぇ、サディクさん。朝鮮戦争が終わって、怪我だらけの貴方がうちに遊びに来てくださった時、私に言ってくださったこと、憶えていますか?」
「憶えていやすよ、たりめぇでしょ?」
菊は嬉しそうに笑った。
アルコールのせいもあってか、今日の菊は表情がよく変わるし、かなり饒舌だ。
「それでは上司に見捨てられた私を飛行機でテヘランまで迎えに来て下さった時、何て仰ったか憶えていますか?」
「勿論」
菊もその台詞を思い出して嬉しそうに目を細める。
「『俺はアンタを共産主義から守るために戦いにきたんだ』
 『当然のことをしたまでですよ。』
 …って。
 私、すごく嬉しかったんです。
 でも、私が…サディクさんに限らず、他の誰かにしてあげられることは「経済支援」くらいです。
 だから、命がけで助けに来てくれて、更にあんなかっこいい台詞まで言われてしまっては、私はもう貴方には勝てないなぁって思ってしまうわけですよ。」
サディクは酔いに任せて何時になくよく喋る菊を面白そうに見ていたが、空いたグラスをテーブルに置いて苦笑した。
「俺が命がけでアンタを助けに行くのは当然でぃ、だって俺ぁアンタに惚れてんだからよぅ」
「信じませんよ、そんなこと」
菊はにっこり笑って即答した。
「貴方は…、明治天皇を、東郷を、乃木を尊敬し、憧れているだけです」
「違いますよ」
サディクの否定を押し退けて、菊は続ける。
「確かに彼らは私の一部です、でももう彼らはいない。
 今の私は…貴方の「尊敬」には値しない」
「違うって、…アンタ、本当に分かっちゃいねぇねぁ…」
むきになって否定する菊に、溜息とも深呼吸ともつかない間をおいてサディクは苦く笑った。
「…俺は、アンタが好きだ。アンタに心底惚れてるんだ。
 アンタの恥ずかしそうに笑う顔も、困った顔も、声も、誰にでも優しいところはちいと腹立たしくもあるが、
それでもそんなところもひっくるめてみんな好きだ。
 本心、俺はアンタがここに遊びに来るたび、アンタをここに閉じ込めて俺だけのものにしてしまいてぇとすら思ってんだぜ?」
真顔でそう言われて、菊は視線を斜め下に落とした。
 
 今朝見た夢が菊の脳裏を掠める。
あぁ、そうか、あんな夢を見たせいで自分はこんなに感情的になっているのか。
少し冷静になろう、そう思ってひとつ呼吸を置く。
しかし、心とは裏腹な台詞が勝手に口からするりと抜け出した。
「だって…、だって貴方は終戦前に私に…、でも、朝鮮戦争の後、貴方は…」
勢いで出た言葉ゆえ、途中で止まってしまった。
「あれは…」
サディクは視線を落とし、すまなさそうに言葉を詰まらせる。
「あん時ぁアンタはまだジョーンズの支配下だったからでぃ。
いくら俺でも、正式な国交もない、同盟国の保護国にゃ手は出せねぇさ」
「……」
そうだったのか。
自分は今まで何と短絡的で独りよがりな間違いを信じてきたのか。
彼の義理堅さは自分もよく知っているはずなのに…。

 「独立したアンタは復興と諸外国との国交でてんてこまいで、俺のことは忘れちまったようだった。
 でもソイツは仕方がねぇ、国政と俺とじゃ天秤にはかけられねぇもんな」
サディクの言葉に嫌味はなかったが、菊の胸は強い痛みを感じた。
「その後は…、まぁ、何だ、アンタがすっかり経済大国になっちまったもんで、声をかけるのもはばかられる雰囲気だったな。
 まるで住む世界が違っちまったみてぇだった…」
「…申し訳ありません…。」
他に言葉が浮かばなかった、あの頃は本当に目先のことしか見ることが出来なかった。
「いや、いいんだ。俺ぁよぉ、嬉しかったんだ、本当に。
 なんたっておめぇ、世界中を敵に回してボロボロに負けた国がよぉ、
たった半世紀で、今度は経済大国としてあれよあれよとのし上がって行ったってんだからすげぇじゃぁねぇか。
下手な映画なんかよりぁよっぽど面白れぇや。
 そんな大国と俺が旧知の仲なんだぜ?嬉しくねぇ訳がネェだろ?」
そう語るサディクの顔は本当に嬉しそうだった。

 この人は、なんと懐の深い人なのか。
今更ながらそう思う。
敗戦国でありながらアメリカの後ろ盾で戦争景気で復興を果たし、
さらに経済発展を続け、再び「大国」と呼ばれるようになったものの、
それを妬む国々に「金だけの国」「アメリカの傀儡」と蔑まれ続けた菊にとって、サディクの言葉は胸に熱く染み入った。
 知らず知らずのうちに、菊の頬から涙が一筋流れ落ちた。
「……」
サディクは無言で菊の肩を抱き、その涙の筋にキスをした。
「じゃあ聞くが、本田さん
あの日の約束ぁ…もう無効かぃ?」
真正面の間近から見つめられ、恥ずかしさで心臓が暴走する。
「…今、そんなこと聞くのは……」
卑怯です。そういいたかったが、声にならなかった。
蛇に睨まれた蛙のように固まったまま、微かに首を横に振る。
菊には「NO」を言う理由が無かった。
心の奥底で、あの約束が果たされる事をずっと待っていた。

 朝鮮戦争が終わって彼と再会し、約束が無かったことになっていたあの日から、
ずっと今日まで胸の中に重い塊が引っかかって苦しくて仕方がなかった。
塊はやがて菊の一部になった。
その違和感は普段は忘れていられたが、ある時ふと「それ」が存在することを思い出す。
一度思い出すと、忘れるまで苦しみが続いた。

死にたいくらい自暴自棄だった愚かな自分
そしてそれを赦し、救ってくれた彼の言葉。

今から思えば、この気持ちは「恋慕」だったのか…。

 菊の首が横に振られたことを確認したサディクは菊を強く抱きしめ、ソファに押し倒した。
「本当に、いいのかぃ?」
何時になくサディクの声が真剣だったことに菊は少しためらったが、意を決して「はい」と声に出して頷いた。
「あははっ!アンタ、もう逃げられやしませんぜ?
 もう絶対アンタを離さねぇ、覚悟してくだせぇよ」
そう言って菊の唇に己の唇を落とす。
「……ん…」
強張った唇にサディクの舌が優しく強引に入り込んできた。
「……ぁ…ん…」
ラクの爽やかな甘みが菊の口腔に流れ込んできた。
意識的に身体の力を抜き、緩めた唇から時折り小さな喘ぎ声が漏れる。
その声に更にサディクの欲情が煽られた。
頬から額から鼻の頭にも、菊の顔中至る所にサディクのキスが降り注ぐ、
強く抱きしめられて胸が苦しい。
「サディクさん…苦しい…」
「ぅん?…あぁ、すまねぇ…」
サディクはソファから立ち上がり、そのままひょいと菊を抱え上げた。
恥ずかしかったが、「降ろしてください」と言うのもなんだか無粋な気がして、菊はされるがままになっていた。
「アンタ軽いなぁ、もうちょっと太った方がいい」
そう言いながら部屋を出る。廊下を突き当たったドアの先はサディクの寝室だ。
昔と同じ、天蓋付きの広いベッドの上に優しく降ろされた。
上着を脱ぎ捨てたサディクがベッドに上がってきた。
「アンタ、男に抱かれるのは初めてかい?」
突然の質問にぎこちなく反応する。
「………」
菊は答えなかった。
「…まぁ、どうでもいいか」
俯く菊の頭を撫で、細く黒い髪をさらさらと弄ぶ。
「もう金輪際、おめぇさんを誰にも触れさせやしねぇ…」
そう言って菊を抱き寄せる。
「誰に触れられてもなぁんにも感じなくなるくらい、俺に染めてやるよ」
唇の端を吊り上げ、にやりと不敵に笑う。
「サディクさん、…あの、」
サディクのペースに押されっぱなしで怖くなった菊は少し場の雰囲気を変えたくなって口を開いた。
「なんです?」
「マスク…取ってください。」
「…あぁ、そうだな」
サディクの素顔を知らないわけではなかったが、こういう場面で見る彼の素顔は一種独特の男の色気があった。
「なんだか、普段と感じが違います」
照れ笑いしながらサディクの頬に触れる。
遮る物のないオリーブ色の視線が痛い。
菊は少し怖くなってサディクの視線から目を逸らした。
『アンタ、男に抱かれるのは初めてかい?』
先ほどのサディクの台詞が胸に重くのしかかる。
「ん?どうしたぃ?」
問いかけるサディクの声のトーンはいつもと変わらない。
「…ごめんなさい」
視線を外したまま、うつろな目で呟く。
「何が?」
深呼吸をひとつする。
「…なんでもありません、ちょっと…緊張してるみたいです」
笑って見せるが、なんとなくぎこちないのが自分でも分かる。
「なぁんも考えねぇで目ぇ閉じて力ぁ抜いてりゃいい」
サディクの唇が菊の両方のまぶたに触れた。

着物の帯が解かれ、衿がはだける。
あっけなく着物を脱がされ、長襦袢の帯も解かれた。
広いベッドの上にゆっくりと押し倒される。
唇に短いキスをした後、襦袢の衿を開いて、首筋に顔をうずめ、象牙色のきめ細かな肌にそっと舌を這わせる。
「ぅっ…!」
菊はくすぐったくて首を竦めた。
「…力いれんなって」
肩に軽く歯を立てる。
「――…っ!」
ぎゅっとシーツをきつく握り締めた。
サディクの舌が菊の鎖骨を滑り、たまに肌に口づける音が聞こえてくる。
その度に菊の身体がピクンっと小さく跳ねた。
「…あっ…ぅ…」
不精髭がちくちくと肌に刺さる。
シーツを握り締めていた右手を離し、己の口を塞いだ。
「…んっ…!…んんっ…く…」
口を塞ぐ手で頬に爪を立て、小さく首を左右に振る。
菊が声を気にすることにサディクは思い当たる節があって、愛撫を止めて菊のほうを見た。
「アンタぁもしかして…、隣ぃ気にしてんのかい?」
頬を高潮させた菊は小さく頷いた。
「…だって……」
隣の部屋は彼の息子の寝室だ。
「大丈夫でぃ、アイツは一度寝たら朝まで起きやしねぇ」
そう言って両脇腹を撫で上げる。
「ひあぁっ!」
不意打ちの愛撫に大きな声を上げてしまい、余計に恥ずかしくなった。
「アンタが俺で感じてる声が聞きてぇんだ」
そんな風に言われるとかえって意識してしまう。
「……」
サディクはそんな菊にお構い無しに、立てたまま閉じられている両膝を割って、その間に身体を滑り込ませた。
「…やっ!! 」
足を閉じようとするがそれは叶わない。
自分のあられもない姿をなめるように見つめるサディクの視線を想像し、
その恥ずかしさに耐えられなくなった菊は、唇を噛み、ぎゅっと目を閉じた。
サディクの右手が膝から内腿を撫で上げる。
「んっ…!」
大きな手のひらが小股から下腹をゆっくりと撫でた。
わざと敏感な部分を避けてじらす手の動きに気が集中していたところに、突然違う方の手の指で胸の小さな突起を強く抓まれた。
「ああぁっ…」
痛みとも快感とも付かない感覚に大きく胸を反らす。
サディクはもう片方の胸に軽く噛み付いた。
そしてそのまま尖らせた舌先で、ツンと勃った突起をちろちろとくすぐるように舐め上げる。
「…ぁあっ…く…ぅっ…」
己の指をきつく噛み、小刻みに首を左右に振る。
そんな菊をちらりと上目遣いで見たサディクはニヤリと笑った。
「アンタ、感じやすいんだな」
その台詞に、にわかに菊の顔が熱くなる。
「違…っ」
そんな事はない、と言いたかったが言えなかった。
「…貴方の、せいです…。」
目を伏せ、小さな声で呟く。

 男の性欲と言うものは単純なものだと思っていた。
要は「射精」することが最終目的であって、脳にスイッチが入れば意識も血液の流れも下半身に集中する。
自慰もセックスも射精の手段であって、性器さえ刺激して射精してしまえばそれで事が済んでしまうのである。
男に抱かれる快感も、直腸付近に繋がる前立腺への刺激から射精に至る事が快感であって、それ以上のものを得ることはない、と。
そう思っていた

 だがこの現状はどうだ。
サディクの視線が自分に向いているだけで身体が熱くなる。
サディクの唇や肌や指が、もっと自分に触れて欲しくて、でも触れられると何故か怖くて、そして切なくなる。

 サディクは笑って菊の頬と唇にキスをした。
「…愛してる」
耳元で小さく囁く。
その甘い囁きと熱い息で、首の後ろに小さな電流が走る。
菊は首をすくめた。
「おめぇさんのその顔見てるだけでこっちが溶けちまいそうだ…」
普段なら恥ずかしくて、聞いただけで胸焼けしそうなサディクの甘い台詞に首まで浸かって、ただ目を潤ませる。
「好き」という気持ちは凄い。
その気持ちがあるかないか、それだけでこんなにも心も身体も反応が変わるものか。
そう思うと、菊はその恩恵である官能を素直に享受する反面、怖くなってしまう気持ちも否めなかった。

 サディクはもう一度菊の唇に接吻けながら、右手で菊のペニスに触れた。
ビクンッ!
菊の身体が弓なりに反り、反射的に腰を引いて足を閉じるが、サディクの身体に阻まれる。
「あ…、んっ…!」
塞がれた唇から小さく喘ぎ声が漏れる。
サディクは菊自身をその大きな掌で包み込み、ゆっくりと上下に動かす。
身体中の血液がそこに流れ込むような気がして、船酔いにも似た心地の悪さに眉を寄せる。
サディクの唇が、菊の唇から下顎、咽喉を滑り落ちていく。
右手の動きは、焦らすようにゆっくりのままだ。
「あ…、あぁっ…サディ…ク…」
菊がサディクの肩に腕を回すが、サディクはその腕をすり抜けて、菊の膝の間に潜り込んだ。
「…ちょ…っ、サ…」
内腿から足の付け根に何度も音を立ててキスをする。
「サディクさ…、ちょっと…!」
普段刺激を受けることのない薄い皮膚にサディクの髭がちくちくと痛い。
サディクは、ゆっくりと愛撫していた右手の動きを止め、その先端の半分被った皮を人差し指と親指で優しく引っ張る。
保護されていた包皮から開放された先端は、先走りの液でぬめぬめと濡れていた。
「嫌です!サディクさん、止めてください…!」
制止の台詞には全く耳を貸さず、サディクはその肌の色と随分違った赤黒い先端に舌先を落とす。
「んんっ…!」
腰に一瞬電流が走る。
菊はサディクを拒んで、彼の頭を両手で押し退けようとするが力が入らない。
「んっ…、嫌…、汚…っ…」
春といっても暦の上だけでまだ寒い日が続く中、あまり汗をかく事は無いが、
風呂に入っていない性器に口を付けられるのは嫌だった。
「汚くなんかねぇや、ははっ!ココも可愛いな、アンタ」
褒められてるとは到底思えない。菊は顔を真っ赤にしてむきになって抵抗する。
サディクはそんな事はお構い無しに舌先でちろちろと愛撫を続ける。
「アンタぁお上品なセックスしか知らないんだな、まぁいいや、その方が教え甲斐があるってモンだ」
「んっ…、あ…、嫌です…、嫌…っ、サディクさん…もう…やめ…」
段々と呼吸が荒くなる。
「まだまだこんなんじゃねぇよ、言ったろ?『誰に触れられてもなぁんにも感じなくなるくらい、俺に染めてやる』ってな
 今日はアンタの頭ン中がショートするまで終わンねぇよ」
そう言ってサディクは菊のペニスを根元まで咥え込んだ。
「…っあ…!」
熱い粘膜に包まれ菊自身は更に膨張する。
サディクは口腔に唾液をたっぷり溜め、唇を強くすぼめて先端までゆっくりと引き上げる。
「ふっ…ぅっ」
足の付け根からつま先まで甘い痺れが走る。
再度根元までくわえ込まれ、それが何度も繰り返される。
サディクの唾液と自分の体液の混じったものが尻まで伝い落ちるのを感じた。
「…ぁあ…、…あ…っ…もう…もう…っ」
歯を食いしばり、ゆっくりと呼吸し、必死になって射精を制御する。
濡れた後孔にサディクの中指が触れた。
「…!」
ゆっくりとねじ込むように指を孔に沈めていく。
「痛…っ!痛い…!」
菊も腹や腰に力を入れると痛いことは分かっているので出来るだけ力を抜くが、それでもやはり痛い。
指が奥まで押し込まれる。
日常生活では味わうことの無い鈍い痛みに、眉を寄せ、歯を食いしばって耐える。
反対に引き抜かれる時は、自動車で隆起した道を通り抜ける時の体の浮くような心地の悪さを感じ、気持ちが悪くて力が入らない。
サディクの指が何度か菊の中を往復し、大分慣れた頃を見計らって、
今度は奥まで挿入した指を小刻みに動かして、指の腹で中をまさぐる。
「…ふ・ぁあっ!」
「そこ」に指が触れると菊の腰がピクンと跳ねた。
それを確認し、サディクの目がにやりと笑う。
菊自身を咽喉の奥まで咥え込み、更に嚥下するように動かした。
「あ…、ぁ…あっ…!」
サディクの唇と舌と咽喉が、まるで別の生き物のように菊に絡みつく。
そして後ろも、直腸の壁のかすかな隆起を指で刺激されるたびに脊椎に電流が走り、
まるでそうなるように作られたからくりのように身体が反応し、小さく痙攣する。
菊は流れ込む快楽の波に溺れてしまわぬようシーツを握りしめ、下唇を噛んで必死に耐えた。
「…っはぁっ…!あ・あぁ…!」
背中や脇にじっとりと汗を感じる。
「…っはぁ…!サディクさん…、サディクさん…!もう…っだめ…、あ…ぁあっ!…」
何度目かの射精感の波が高まってくる。
流石にもう限界だった。
「離して…、お願い…もう…、もう、出る…っ!」
菊の必死の哀願を無視してサディクは更に愛撫を続ける。
「いや…、嫌です…、嫌…っ、お願い、お願いです、あぁっ!……怖い…!」
自分の身体が、今まで全く自分の知らない感覚に翻弄されることが怖くてたまらない。
酸欠でズキズキ痛む頭を更に激しく左右に振り、足をばたつかせてサディクから逃げようと必死になる。
その有様に普段の大人しく理性的な菊の面影は無かった。
誰も知らない「本田菊」。
それを知るのは自分だけだと確信し、サディクは優越感に浸った。
「―――……!」
菊の渇いた咽喉から声にならない叫びが上がり、サディクの口に果てた。

 「――…っはぁ…、はぁ…」
ゆっくりと目を閉じ、肩で息をする。
涙で睫毛が固まっていることに今気付いた。
「…ごめんなさい…。」
枯れた声で呟いた。
吐き出された菊の欲情を嚥下し、サディクはその唇を手でぬぐいながら菊の横に寝転がった。
「何が?」
「…その…、口の中に…、あの…」
恥ずかしくて口ごもり、サディクから目をそらす。
汗で額に張り付いた黒髪を剥がして、その額にキスをした。
「今度は俺も楽しませてもらわねェとな」
と挑発的な笑みを菊に向ける。
「…え…?」
菊の顔が引きつる。
「本番はこれからだろォが」
菊の頬を軽く抓り、そのまま身体に覆いかぶさる。
「あ…」
気だるさと心地よい重圧感と、己の身体に重なるサディクの肌の擦れ合うくすぐったさに声が漏れる。
「…愛してる…」
再度耳元で囁く。
「愛してる、アンタぁ俺だけの最高のラーレだ…」
菊の膝を割り、下腹を押し付ける。
「…ん、…私も…、…好きです…」
目を閉じてサディクの背中に両腕を回した。
サディクはニヤリと笑って唇を繋ぐ、少し苦いキスに菊は少し眉を寄せた。
















 目を開けたとき、菊は暗いベッドの上に独りだった。
「…?」
うたた寝してしまったのか、まだ外は暗い。
サディクの姿を目で探す。
「サディクさん…?」
と声を出したつもりだったが、唇がそう動いただけだった。
「…?」
ああそうか、咽喉が枯れて声が出ないのだ。
身体を動かそうとするが、体中が痛くて思うように動けない。
普段からの運動不足が祟ったか、と情けない気分になるが後悔先に立たず。
「目ぇ開いたかい?」
寝間着姿のサディクがドアを開けて入ってきた、手には氷水の入ったポットとグラスを持って。
差し出されたグラスを手に取り、冷たい水を一気に飲み干した。
「…ありがとうございます」
深呼吸をひとつして、何とかひと心地ついた。
ふとサディクのほうを見ると、彼も菊のほうを見てニヤニヤ笑っている。
…さっきまでこのベッドの上で繰り広げられていた睦事を思い出し、顔が赤くなる。
「ごちそうさまでした」
グラスをサディクに付き返し、背中を向けて頭までシーツを被った。
自分でも恥ずかしかった。

自分があんなあられもない格好をするなんて
自分の咽喉からあんな淫靡な声が漏れるなんて
自分の身体があんなに敏感だったなんて…

「あの時の自分」は自分ではなかった、…そう思いたかった。
そんな菊が可愛くて、サディクは笑いを殺すのに苦労した。

 「あぁ、そうそう」
ベッドの横の戸棚の引き出しを開ける。
そして背中を向けて照れている愛しい人の肩に手を置いた。
ぴくんっと菊の肩が震える。
「これ…付けておきなせぇ」
シーツを肩まで引きおろして青いガラスのペンダントを菊の首に巻き、留め金をかける。
「…これは…?」
大きな青いガラスのビーズに白と水色と黒の三重の円が描かれた、目玉のようなモチーフのペンダントだった。
「ナザールボンジュウってぇ言ってな、俺ン家の魔除けのお守りでぃ。」
「…ナザール、…ボンジュウ…、ですか」
そういえばサディクの手首にも似たようなガラス玉のブレスレットがあったことを思い出す。
「ついでにお前さんにとっちゃぁ「虫除け」にもなるようにってな」
唇は笑っているが、目が笑っていない。
 …困った。菊は視線を泳がせうなだれる。
「…サディクさん、別に私は…、その、…アルフレドさんとは何もありませんから」
サディクの眉がぴくっと動く。
「……、」
深呼吸をひとつする。
「…私の過去を、お話しておいた方が…いいですか?」
ゆっくりとサディクを見上げ、問いかける。

 菊は迷っていた。自分の過去を彼に話すべきか。
サディクの信じる宗教はとても戒律が厳しい。
彼の宗教では、女性は結婚するまで処女であることが半ば強制されている。
反対に処女の女性を弄び捨てた男は、女性の父親から殺されても文句は言えないらしい。
自分は女性ではないが、彼はそういう事に拘るのだろうか?
もし自分に過去があることを知ったら、彼はどう反応するのだろうか?
 「……」
にわかに難問を突きつけられ、サディクも言葉が詰まる。
「…いや、別にいいや、過去に何があろうとおめぇさんはおめぇさんだ」
その言葉に菊の気持ちは少しだけ軽くなった。
たとえそれが本心でなくても、それだけ気を使っていてくれることが嬉しかった。
サディクは菊から目をそらし
「まぁなんだ、おめぇさんが言って気が楽になるってぇんなら聞いてやってもいいぜ?」
と、斜に構えてみる。
「………」
菊は唇を噛んで天井を見上げ、一呼吸置いた。
「政略結婚ですよ」
「え?」
「昔、二度ほど国政の為に輿入れしたことがありました。
 …別に話すほどのことではないとも思ったのですが、他国にあらぬ疑いをもたれて、
サディクさんの国交や国政に影響があったりしたら困ると思ったので…」
サディクはバツの悪そうな顔で明後日の方を睨んでいる。
「…で?その輿入れした国はどうなった?」
「一つは滅びました…。
もう一つも、輿入れした後、その王朝が崩壊しました。」
呼吸を一つおいてサディクのほうを見る。
「つまらない話で申し訳ありませんでした、私の「過去」はそれだけです」
「別に俺ぁ気にしてねぇよ」
菊と同じシーツに潜り込み、肘枕で菊の顔をじっと見つめる。
「アンタの話からすると、好いたヤツとねんごろになるってぇのは俺が初めてって事だろぉが」
菊の頭に手を置き、その柔らかで真っ直ぐな黒髪をくしゃくしゃと弄んだ。
「………はい」
恥ずかしそうに笑って小さな声でこたえる。
「…それで充分でぃ」
髪を弄んでいた手を菊の首に回す。
「まぁな、長く生きてりゃ色々あるさ、俺もアンタも。
でもな、おめぇさんが好きになるヤツぁ俺が最初で最後だ、
いいな?」
肘枕を崩した手で菊を抱き寄せる。
腕枕の中で目を閉じ、菊は小さく頷いた。

窓から差し込む月の光に、胸元のナザールボンジュウがキラキラと光った。



 《 終 》